野毛のまつり2005

 祭りの頃帰省すると、祭りの音楽が朝から町内に流れ、夜は提灯にあかりがともり、独特の風情で最悪のバカガキと小学校で話題だったことなども思い出され、非常に懐かしい。絵日記ネタはいろいろ話したが、作文ネタもある。「ぼくのおかあさんは尻がでかく、デカ尻とお父さんはからかいます。おかあさんはまんざらでもなさそうにしています。尻がでかいからたくさんうんこをするんだねといったら、『じゃああんたもたくさんうんこをするんでしょ』と言い返され、『うん・・・』とだじゃれをゆおうとして、言えずにいると、おじいさんがめずらしく笑い転げていますた」。先生のコメント「うんこはおしりのほっぺたのようなところに貯められるわけではありませんよ。図鑑などで理科の勉強をちゃんとやり、人体の仕組みについてきちんと理解しましょう」。涙が出るくらいよい先生だと思うが、私も尻ッぺたのところに貯められるとは思っていたわけではない。そんなアバウトな次代に育ったので、祭りの音楽はいいなぁと思うだけなのであるけれども、今年この笛や太鼓の音楽が朝から流されることについて、五月蝿いという苦情が町内会に寄せられたらしい。そんなことははじめてだそうだ。時代の変化を感じた。また去年までは、外国人のギャラリーが多数いたのだけれども、今年はほとんど見かけない。入管のお仕事によるものらしい。
 今年も野毛の祭りで神輿をかついだ。この時期になると、他所へ転出した人たちも戻ってきて、みんなで神輿をかつぐ。私がガキの頃、若手のバリバリだったような人たちはもはや大御所になり、近所の孫やなにやら、いわゆる戦後三世の世代が顔役になっている。かつぎ手の人はけっこう数がいる。ただ、なんとなく年齢的に他の町内に比べ相対的に高齢化しているカンジがしないこともない。勢いがよすぎるくらいのときもあり、やめろといってもやめなかったり、肩からさらに上に両手で神輿をリフトして大騒ぎするパフォーマンスも飛び跳ねてたいへんな勢いだったのだが、今年はなんとなく萎え萎えで、リフトもすぐ終ったし、裏通りのときはかけ声もまばらになり、なんとなく黙って神輿を運搬しているようになっちゃったときもあった。また、休憩していざ再開というときにさあやるぞというよりは、最初から逝きます!ッて言う人は少なくて、「持ち上がるのか?」などと不安の声をあげる人もいたわけだが、「かつぎ手がいなくて、8人くらいでこのでかいのをかついだこともあるじゃないか」「それもそうだな」みたいな会話がされていたのには、ちょっとびっくりした。
 うちの町内は、かなりお神輿かつぎの専門家みたいな人もいるにはいるけれども、もともとが職人の街だし、そんなかつぎ手が足りないことはないはずだ。別の「町殺し」にあった街にかつぎにいったときの話かもしれない。そういう人が模範を魅せているので、まねしてかつぐようになり、かつぎ方は整然として、むかしみたいにバカみたいにモンで、肩がベロベロみたいなことはなくなったと思う。他の町内には時々見かける仮装パーティー(=へたくそな女装だとか)のようなかつぎ手は、前はうちの町内には多数いて、大騒ぎだったのだが、今はそれほどでもない。戦後二世の人たちは、町内に野球部もあって、運動会なども団体でやっていて、冬の深夜火の用心なんかも豚汁とか飲みながらやっていたし、成人式などもまとまってやっていた。成人式が打ち切りになったのは、私の学年からで、私のあたりは町内の結びつきはほとんどない。私も吉祥寺在住だし。そのあと二世ジュニア世代は相当数で、それが町内のいろいろを仕切っているわけだが、その世代はバカやって担ぐみたいなタイプではなく、全体をきちっとしきるというタイプの人が多いように見受けられる。よって、昔のバカ騒ぎ仕様はなくなった。
 しかし、この町はどうなってゆくのだろうか。うちから何分というより、何歩のところに場外馬券売り場があって、その客足がこの町ににぎわいをあたえてきた。もちろん、野毛の風情ある飲み屋を愛するコアな呑み助も数多いだろうし、他の各種傾向趣味人も少なくないのだろうが、競馬の町であると言っても過言ではない。そして、近くの寿町には船券の売り場ができ、桜木町には競輪の場外ができるという話である。そのこと自体には、私は意見はない。なぜなら、この地区において「町殺し」をしたのは、場外馬券売り場よりも、高度成長やバブルの乱痴気のほうだと思うからである。特に高度成長期は、この地区の多くの町内が、祭りをやめて、バスで旅行に行ったりみたいなことをしだして、街並みも風情のないものに代わっていったように記憶している。風情もへったくれもない「町殺し」だけはなんとかしなくてはならない。しかしまた、新しい風情が日々誕生していることも、忘れてはいけないとは思う。