卒論・答案について

 前期の採点がようやくのことですべて終了した。非常に疲れる作業だが、毎回答案を読むたびに発見があり、実に楽しく、また有益である。子供を持ってはじめて親の苦労を知るというが、教える立場に立ってはじめて恩師の苦労を知るというところがある。未整理のセンスや論理や理解や知識や図式や概念やなにかが放り投げるように文章に詰め込まれ、さあ評価して、あわよくば褒めてみたいな答案は、お前さみたいに言いたくなる。他方、情報量はさほどでなくても、順序良く丁寧に論の道案内をしてくれ、結論に導くような、読むものに語りかけるようなーーべつに口語で書いてあるかどうかじゃなく、噛んでふくめるようにというかーーそんなふうに書いてある答案は、やるじゃんと思ってしまう。情報量の少なさは、聡明さを感じさせ、「いかに捨てるか」という論文の基本をわかってるじゃんなどと思ってしまう。そんな答案にかぎって、「講義の○○は丁寧に説明されてわかりやすかったが、急ぎ足で終らせなくちゃみたいに語られた○○はわかりにくかったです」などと書いてあり、スンマソンという感じである。妙に大人びた椰子だなぁ。もう少し若いうちは荒削りなほうがよくなくないと負け惜しみな気持ちになったりもするが、にゃんともにんともである。
 人間は結局のところ自分に甘いから、克服した過去を振り返るように卒論や答案などを見る傾向があると思う。私の場合、部分的なアイディアやセンスや論理やレトリックや理解や知識や図式や概念に自己陶酔して、全体的なコンテクストを見失うことがママあった。「市民社会大衆社会ー知識社会ー管理社会」について書けという試験で、よく勉強した市民社会を書き終わって残り時間五分などということもあった。論文を書いている途中で本を読み出し、それが理解できたことがうれしくて、そっちの方に論がぶれていくこともままあった。流行の言い回しとか、用語とか、使ってみたくなり、ウンチク傾けて、先生に怒られたこともある。図式にほれ込んで、論文を書く作業が図式のゲームに矮小変換され、わけわかめになってしまったこともある。「言いたいこと」を必要十分な用語、知識、論理などで表現することができるというのは、それなりに年季がいるものである。大学院の場合、楼名主のような先輩がいて、むかつく同輩や後輩がいて、あら捜しをされることで、猛烈に鍛えられてゆく。学部の場合は、そこまで切磋琢磨しあうようになることは、よほどやる気のある人がそろわないとだめだし、合格のためのギリギリ答案が書ければいいなんて思っているとだめなのだろう。
 ただ、矛盾した言い方に聞こえるかもしれないが、「矮小変換」するから問題なのであって、うまくいけばそれはセールスポイントになるわけで、結局そういう部分のない椰子は、だめなのかもしれないと思う。卒論のためには、イイ本や論文を読むことで、書くコツがつかめるということができる。その学生の個性を考えながら、この書き方で書いてみたらなどとアドバイスすることになる。この場合、医者といっしょで「セカンドオピニオン」をいろいろなところで求めるようにも推奨している。やはり答案や卒論には好みがある。近親憎悪を感じることもあれば、上にも言ったように自分の克服した過去に位置づけて済まそうとする傾向がある。いろんな人に意見をもらえば、意気消沈することもないだろう。もっとも、これは教師のタイプにもよるかもしれない。いわゆる手塩にかけるタイプの教師に指導を受ける場合、セカンドオピニオンを振り回すことは、性急な言い訳になりやすいからだ。パーソンズは、言われたコメントや批判について、どんなに心ないものに思えても言われたことの意味を考え抜くようにした。そういうことを矢澤修次郎氏が講義で言われていたことが思い出される。
 さて、卒論はイイが、問題は答案だ。過去の名作を説明することくらいはしている。前にも言及した「あんたが観察してきたのは大学生だけで、働く若者はみたことがないだろう」という社会人入学のおぢいの答案とかそんなもの。試験問題や答案の例を積み上げてゆくことは、けっこう社会学教育に有効だと思うのだが、意外にそういうものがない。本もないし、サイトも少ない。いろいろ探しているのだが。答案の場合は、採点に疑問があってもなかなか質問できない。教師をはじめて、何年かは全員にコメントをつけて返却し、そのあとも希望者にしていた。最近は、そういう努力を怠っている。私の怠惰もあるが、表情のない答案が増えたことも否定できない。悲しいことであるが。はじめてやった教養部の社会学の講義は、ニスベットのテキストを解説するという無理のあるものだったが、レポートの多くは、いまだに覚えている。なぜなのか、考え続けている。