ムシキングやばくね?と思ったが・・・

 最近はぜんぜんやらないが、私ははっきり言ってゲームは好きだ。院生時代に塾バイトの前に駅前のゲーセンでハイパワーオリンピックやっていて、ガキどもに見つかり、下手くそと罵倒されつつも、定規でびぃよんびぃよんやる方法習って、おおおおお萌え〜〜と絶叫しつつ、クリアしていったのを思い出す。ガキが、電子ライターでいくらでもできるとかほざいていたので、ぶん殴ってしめて恩返しも一応したなんつーのも、懐かしい思い出である。岡山時代は、一時研究室はゲーセンみたいだったことがある。パソコンゲームが大量にあって、はまりまくり、みんなで大騒ぎでやっていた。っつーか学生がパソコン占領して、仕事ができない時期もあり、なんともにんともだったなぁ。特に盛り上がったのがロードランナーと、あといくつかのRPGであった。前者のチャンピオンシップを全面クリアして認定書もらったのは、何度でも自慢したい気分である。RPGで一番盛り上がったのは、ロマンシアでこれがセーブできないというめたくそなもので、キーさばきのイイ学生たちと組になり、こっちは経路を記憶する係で、午前様になってもやり遂げて吠えまくった記憶も生々しい。大戦略のリアル戦闘モードに萌え萌えになり、三国志では横山光輝のマンガなどを読みつつ、諸葛孔明ぢゃあああとか、火計に夢中になったり、ろくなもんじゃなかった。ゲーム脳だなんだというけれども、パターン思考の身体的活用というのは、けっして無意味だとは思わない。
 そんな私でも、ムシキング大ブレークっつーのは、ちょっとやばくね?と思った。SakuSaku でこわもてのヒットマンがやっていたせいもあるのかもしれないけど、なんかすげーとらうまな気持になったのだ。じゃんけん+ダイナミックアクション画像。カブトムシが萌え〜〜〜〜を誇らしげに戦勝の雄叫びをあげる。まあ、われわれがガキのころやった、ベーゴマとか、メンコとか、あるいはちんちろりんとか、そんなものといっしょなのかもしれないとは思う。酔っぱらった勢いでゲーセン逝ってやれば、オサーンたちでも楽しめるだろうし、いえでおぢいちゃんおばあちゃんとやるのも、一興だろう。また、それなりの工夫みたいなものがあることもわかってきた。馬鹿になると言われた、マンガでも、アニメでも、テレビでも、それなりの世界が構成されると、それなりの分節化はしてゆくわけで、ムシキングがダメダメということではないということもあるとは思うよ。アニメーションやいろんなもんが、ガキをいろんな風に刺激して、真似してみたり、ムシキングごっことかしたり、学芸会でお笑い寸劇やったり、体操の授業で相撲やるときつかったり・・・。
 それは百パーセント認めるけど、なんかムシというのはトラウマだ。そんな気持を代弁するような言説もそのうち出てくるのかもしれないね。問題は、みんなが萌え萌えになるエネルギーをどう生産的な方向に水路づけてゆくかみたいなことだと、古い世代のスポ根ノリの親ぢとしてはどうしても思ってしまう。私の家は貧乏だったので、付録付きの月刊漫画誌とか、レーシングカーとか、電車のおもちゃとか、プラモデルとか、ほとんど買ってもらえなかった。ゲーセンなんてとんでもなかった。おやぢや、ぢぢいがゆっていたのは、職人のガキなんだから自分でつくれということで、ボール紙や割り箸などを使ってなんでもかんでもつくった。ほとんど失敗して、おもちゃ屋で空しい思いになったのだが、つくっているときは夢中だった。何時間でもボール紙を切り、貼り合わせ、ゴム動力をつくり・・・みたいなことをしていた。それは自分にとりかけがえのない財産になったと思う。残ったのはゴミの山で、私たちバカ兄弟はきたならしいガキだった。売れるものへのあこがれは人一倍あった。売れることと、創造的であることは必ずしも矛盾しないというのは、もしかすると私のイデオロギーなのではないかと思う。w しかし、ムシキングという名前は、あまりにパンクでエクセレントだと思う。絶妙さに震えが来るほどである。w