前期ほぼ終了

 昨日水曜日は、修士論文の中間報告会だった。今年修士論文を執筆するのは2名。共通するのは、「子育て」が主題になっていることだと思う。これはうちの大学の社会学科、大学院の社会学専攻において研究が行われ、成果がいろいろと公刊されてきた研究主題であり、うちの大学の学風になっているように思われる。ひとつは子育て支援NPOと情報化の問題を主題として、複数の調査を行った作品である。もうひとつは、女性医師の子育てについて調査を行ったものである。前者は、社会人入学の人で、社会的実践を踏まえた重厚な調査は説得力があるものである。これからさらに調査を追補してゆくそうだ。自分の関心もあり、「情報化と縁」に関わる質問をさせていただいた。後者は、事例調査の説得性について批判的なコミットメントが行われた。事例の数的な問題、観点、論理的な考証など充分でない点が多角的に検討された。専門の違う院生、教員がコメントすることで、執筆者も勉強になるのはもちろんのことだが、私のような主題がちょっとずれる者にも充実した一時となった。
本日の四年生のゼミで、本務校の前期授業は終了となる。なんだかんだ言って、授業があると本も読めない。この前協力したW大の研究者の研究歴などをめぐる調査(授業の実習)で、授業と研究の関係について聞かれて、執筆する元ネタを授業でやるとか、草稿を授業で話してリファインするとか、そんなことを言ったのだが、今年度前期話した「間の社会心理史」の場合、伝統文化を中心に話をしたため、とりあえずセカンドハンドの資料を読解紹介するというようなものになり、準備にかなり手間取ったわりには、直接アウトプットできるようなものでもなかったりして、非常に歯がゆいものがあった。もしかするとこの方がシラバス利用という観点からすると理想的な講義に近づいているかも知れないと思う。文献を複数示し、予習復習を前提に、計画的に講義をすすめてゆく方法。
 実はそういうやり方は私は好きではない。窮屈なんだよね。思い出すのは、先輩の草津攻先生から聞いた話。シンボリック相互作用論の学会かなんかで、シュトラウスが概念定義をチャキッとして話をしようとしたら、強面の兄貴、っつーかオヤジのブルーマーがキレたらしいのよね。「そんなパーソンズみたいなことすんな」みたいな。私は、パーソンズを批判するブルーマーや、ミルズには、「必死だな」と2ちゃんっぽくからかいたくなる衝動を禁じ得ないという中村好孝の指摘には、禿げしく同意なのであるけれども、それにしても授業計画出して、チャキッとやれっていうのはなんかアレなのである。それより、話しているうちにいろいろな話が生成してゆくようなやり方、ブルーマーが『シンボリック相互作用論』の社会科学方法論で言っているgeneric な方法のほうが、いいんだけど。
 ただ、それだと話す方はよいのだけれども、聞くほうはやはり大変なのだろうとも思う。特にゼミは、そういうやり方をしているとどうしてもアドホックになり、「受験勉強的なもの」に慣れ親しんだ人には、だらしない場当たり的な講義というカンジに映るのではないかと思う。前期は『東京スタディース』を2項目ずつゆっくり読んできたのだが、最初のうちはよかったものの、だんだん惰性になってきて、なのに「吉祥寺」の特性のなさについて、若林幹夫氏の論考と関係づけて、テキトーな理屈つけて、「イースト吉祥寺」のフィールドワークの計画をしたんだけれども、「後付ぢゃね?」みたいなカンジの顔をみんなしていたような気がしてならない。