マニ☆ラバ『青森駅』

 とくだねをみていたら、なんととくだねまでもがマニ☆ラバ青森駅』を採りあげていて、おづらが若干興奮気味に青森での爆走と、じもぴーの談話や、青森駅関係者たちの談話を紹介していた。新星堂が「全国発売間近」みたいにイチオシしていたわけだけれども、ついに昨日4月13日に全国リリースされたということで、採りあげられたみたいだ。レーベルは「僕たちのレーベル」という「青森レコード」。堂々の「青森駅長すいせん☆」。でもって、プロモまでもうできていて、「さあお待ちかね」と曲を流した。前田忠明が、なにか言おうとしたら、おづらは「黙って聞こうぜ!」。前忠「これはきっと流行りますよ」と言った。なぜかジャケツがでねぇ。

青森駅

青森駅

青森駅

青森駅

 プロモは、青森駅での別れを描く。CDのジャケツにあることば。「雪のやまない駅 強く抱きしめた 君が都会の人にならないように 北の玄関口“青森駅”を舞台にくり広げられる一遍の恋物語」。歌詞は「明日の朝 君は発つ 向かう東18年の想い」ではじまり、「君は都会の女性になって 1人歩き出す 雪の駅」で終わる。ポスト72年に夢を持って上京して、50歳前後の人間は、おそらく世代的な回想を禁じ得ないのではないか。「汽車を待つ君の横でボクは時計を気にしてる」の「なごり雪」。「恋人よボクは旅立つ。東へと向かう列車で」の「木綿のハンカチーフ」。とりわけ後者のモチーフは、この歌においてもそれなりに生かされているだろう。夢を持って上京するのが30年前は「ボク/あなた」であったのが、この歌では「君」になっている。ジャケツの表は、雪の青森駅でうつむく女性の写真、裏面は青森駅からの電車の駅が書いてある。「向かう東」の文言には、少し驚いた。青森から上京する場合、「向かう南」なのかと思っていた。ところが、「東」なんだな。っていうことは、「木綿のハンカチーフ」ももしかすると、西からの上京とは限らないことになる。
 めんつは、吉郁三などとコラボもしているし、アルバムも出している。オフィシャルサイトには、視聴コーナーもある。「青森駅」のジャケツの海賊版=男性バンドマン仕様もアップされているし、メンバーのプロフなどものっている。「素朴さ」は、あったりまえのことだが「商品」となっている。その底に、平川地一丁目だとか、ゆずだとかがもっている、ヤヴァイぽっぷ、パンクな部分があるかどうかは、ちょっとわからない。こうした叙情的作品性が、どのような戦略で撃ちだされたのか、それとも素なのか、まだちょっと判じかねる。
 このバンドマンたちもまた東京と青森をいったりきたりしている「往還の人」である。「うれること」について、賛否両論があるだろう。高円寺の円盤かなにかで、隠れた一品として見つけて、黙ってきいている方がいいという人もけっして少なくないんだとは思う。『嗤う日本のナショナリズム』の書評をめぐる議論を蒸し返すならば、「メイン化」などを馬鹿面さげて賞賛していればすむという問題ではなく、「メイン化」という美名のもとに動員され、消費されつくすサブカルチャーにすぎないという点は、メジャーも青森レコードもかわりはないということになるのかもしれない。しかし、それもまた「メイン化バンザイ」の極論とかわりないのかもしれないとも言える。どうあがいても頭悪いカンジがするのはいかんともしがたいが、「資源動員」の質を「メイン化」の問題として考えてゆきたい。
 何度もコンパなどで歌った『なごり雪』は、映画にもなり、臼杵の美しい街並みととけあい、思い出に一つのあやどりを加えた。住民運動で大工場の進出に反対した街。そうしたことを礼賛することはなんの意味があるのだろうか。『サブカルチャー社会学』で地方でミニシアターをつくった人を描いた。友岡邦之さんが、高崎のミニシアターを運営しているNPOが火の車であると指摘されたときに、「メイン化礼賛」の功罪を深く反省した。が、それもまた思い上がりなのかもしれない。ほめてもけなしても結果はいっしょ、たいした影響力などありはしない。研究と現実は触媒のようなもので、研究の意味はその影響力に解消されるわけでもないだろうから。
 ガンガン売る人も大事だということはわかる。しかし、売れるということは、ビートたけしを「コマネチ」として消費しつくし、コント55号を「飛びます飛びます」に解消することだろう。そうしたスマッシュヒットを上手く使いこなしながら、道楽みたいな映画を撮ったり、あるいは定時制の野球を応援したり、自前の球団をつくったりしたのが、萩本欽一であり、ビートたけしなんだろう。萩本欽一は、修業時代に世話になったストリッパーと結婚し、この件については黙して語らない。そういうけじめに希望はあるのだろうか。