若者の自己実現と留学

 本日は年度初の教授会である。その教授会で、ふたつ社会学科学生の留学の報告があった。一つは、韓国への留学である。大学一年時に、協定校との交換留学を申し出た学生だ。普通は一年目はダメ。しかし、熱意で学生はねばった。私の研究室にも相談に来たので、「最終的には人間熱意だよ」と助言した。そして、この学生は『釜山港へは帰れません』の著者で、テレビ講座でも有名なK先生と相談し、語学力不足は先生が特訓するというお墨付きをもらい、留学が許可になった。先生の熱意を引き出した学生もたいしたものだが、個人教授までして送り出すという先生の熱意にも頭が下がる。もちろん無料だろう。大学というのは、なにもしてくれないようで、いろいろ目をこらせばいろいろ役に立つものと出会える。教師、教材、施設・・・。それと出会えるかは、運だけではないと思う。
 そういうアドバイスを、一昨年2人の学生にした。そのうちの1人は、海外ボランティアで、外国に出かけた。アイセックに所属し、具体的に計画を立てた結果だろう。1年やってかえってきた報告も、この前会議でなされた。そのときのもう1人は、「なんとなく留学したい」というだけで何も調べていなかった。なんとなく英米圏の大学の授業を受けたい。語学留学じゃヤダ。そんなカンジで、何を勉強したいかもはっきりしていない。ちょっと投げやりっぽく見えた。しかし、その後模索を続け、自分で留学先などを探し、ロンドンに出かけていくという。その報告が今日なされた。
 なんか投げやりっぽい奴が、けっこう真剣に自己実現を考えていたりする。一番びっくりしたのは、うちのゼミかもしれない。うちは、まあいい加減っぽい椰子がはっきり言って多い。化けたらすごいかもというのとか、完璧精神的に煮詰まっているのとか、割り切ってパラダイスな椰子とか。一番多いのは、パラダイスに楽しんでいるタイプで、シュアーに単位は取り、取りこぼしはない、卒論もそつなくこなす。就職も、人もうらやむようなブランド&クリエイティブ系に決まる。でもって、いろいろ楽しんで生きている。そんなタイプである。もちろんこういう椰子は、教師とは適当な距離感で、要領よく卒業してゆくので、あまり手がかからない。まあ言ってみれば、一番ありがたいタイプである。ところが、こういう椰子らのなかに、けっこう海外ボランティアみたいなので、アジアの○○スタンというようなところに行っていて、いろいろやってきたり、バックパッカーみたいにして、猿岩石しているようなのがいるのだ。じつはその前年度にもいた。これはかなりびっくりすることだ。濃密な価値があってこそ、パンクは成立する。そういうアイロニーを見つめることを、ここでも思い出した。
 ついでにメモっておくと、香田青年に関するまとめサイトをみつけた。プロジェクトYの原稿を書く際、書き出しはこのことを書こうかと思っている。ここ一年のすべてもモチーフは「義手義足技術者志望青年の<勝利>」であったと言っても過言ではない。ここから、「間」の問題−−あるいは先日の記事からすると「余白」や「力なき力」−−を見てゆきたいと思っている。ある事実によって、物事は全く違って見えてくる。というか、違う全体連関のなかで、全く違った意味が見えてくる。これを、宮台真司氏の十六分割の絵で考えることも出来るし、ブロッホブレヒト、佐藤毅氏らの「異化論」で考えることもできる。このような自在な批判性を見る例として、香田青年の例は、私の主題にそくするならばもっとも適切なもののひとつだと思う。
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