『白い巨塔』ようやく見終わりますた。新作と旧作は、だいぶ違う展開であることをあらためて確認する。新作はより寡黙に、しかし役者の表情や比喩的映像はより饒舌になっていることは前にも言ったとおりです。旧作は、内面の独白、ナレーションなど説明的な文が随所にはさまれており、「里見的なもの」と「財前的なもの」が対位法のようにシュタシュタと繰り返されたり、たぶん手法的には古くさいものなのかもしれません。しかし、どーでもいいような脇役にトンデモナイ人がいたりして、そういう意味でドラマ空間は重厚でコクのあるものになっているような気がします。
しかし、田宮二郎はこのあと逝ったという知識がない人が見たとしても、最後の数回の田宮は馬路やばいよ。あまりにやばすぎて、スゲー感動的なところなんかも、笑っちゃうくらいだもん。権力欲に萌えまくるところでは、なんか突き抜けちゃって、目が妙に澄んでいるだよね。でもって母を語る時、貧しい学生時代を語る時、そして里見と切磋琢磨した日々を語るようなときも、逝っちゃっているところや、澄んだ目はかわらないんだけど、ちょっと愁いや、潤いや、微温をたたえたりするカンジなのね。「里見君と夢中で語り合い、気づいたら夜が明けていた」見たいにニターッと笑った時は、あまりのことにぶっ飛んで藁っちまったよ。なんだよこれってかんじ。でも、ぬらぬらと見えるものは馬路やばくて、魂を揺さぶるものがありまする。
最後の最後に、財前が鵜飼学部長を怒鳴りつけるところなどは、新作イブ雅刀の奇策のような大仰な演技は私にはなかなか萌えなんだけど、こういうところは旧作は徹底して寡黙なんだよね。手紙が読み上げられ、暗闇のなかを、白い巨塔に向かって行進が行われるシーンは、荘厳な音楽とともに、脳内麻薬炸裂し、萌えまくり歌舞伎まくりの演出者の表情が浮かぶようで、なかなかしみるものがございました。なんの意味もないけど、久世光彦という名前が浮かびますた。w まあ最後の最後は、目立たぬようにいろいろな含みが残されてはいるものの、勧善懲悪っぽいものが見えやすくなってしまっていてわかりやすくなっていて、しかしまたある意味含みを理解する上ではマニアックなものになっているような趣向を感じますた。ひつこいようだが、太地喜和子は最後の最後まで切れまくっている。「母」という変数へとリンクさせる基本的な組み立てを脱構築というか、再構成というか、まったく別様のふっくらとしたものを創りあげているように思う。どーでもいいけど、この人については、本も出ているんだね。
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できすぎた話に見えた人も多いとは思うが、職人の偏屈をつぶさにしてきた私には、このやりとりは非常にリアルである。「腕一本の職人」は、学歴もないし、家柄もへったくれもない。しかし、自分の仕事や家族に猛烈なプライドをもっている。偉いさんの医者であろうと、弁護士であろうと、社長であろうと、気に入らないことはしない。ある者は、貧しさから小僧に出されて、職人を目指した。またある者は、親のあとを継いで職人になった。こういった再生産構造にはもちろん問題はある。戦後民主主義教育のなかで、こうしたプライドが踏みにじられたことを確認しておくことは大事だろう。私の祖父は、婿養子を職人にしそこねた。修行は厳しく、「給料とり」は魅力的だった。その婿養子の子どもの私は、婿養子のルサンチマンを背負い、進学を目指した。「職人」なんて考えもしなかった。ただまあ、うちは「職人」は尊敬されていた。もっとすごいのはビートたけしの家だ。「教育ママ」とダメ職人。しかし、「手に職を」と大学は理工系にかぎられたことに、たけしは再三言及し、母親への理解と同情を示しているようにも思われるが。