あびる優@カミングダウト

 カミングダウトを見のがした、まあ今週は谷原章介のサソリはないだろうと楽観していたわけだが、数日たってたいへんなことになっていることを、みくしにおいて知ることになった。あびる優はけっこう面白いかもと思っていた人は多いと思うし、なんか今度の一件はなんとなく雰囲気っぽかった中森明菜がマッチに馬路であったのとか、同じく雰囲気っぽかった山口百恵が結局は三浦友和と結婚し、ナイスガイ宇津井健さんが「ぶくぶくに太ってないすかあちゃんになってくれ」とか言って、これもイイジャンとか不覚にも思っちゃったのとか−−もちろんそういう人生はありなわけだし、山口百恵はじつに聡明に生きていると思うのだけれども−−と、同じくらいに萎えた。
 実は、番組を見ていないから、なんとも言えないのだが、すこぶるのエリートコースを歩んだ者が、「オレも昔けっこうワルでさ」みたいなことと同じようなやな感じがしてしまった。もちろんこれは勝手な想像のなせるわざなのだけれども。キズ自慢はなかなかできるものではないけれども、ワル自慢、変態自慢、左翼自慢などをするやつは、たいしたことがないとある先輩がいっていたことがトラウマのように刻みつけられているからだ。貧乏自慢、アホ自慢なども、メッタにするモンじゃないと、その先輩に昔たしなめられ、けっこう堪えた。今考えると、「男は黙ってサッポロビール」というのも、勝手な美学にすぎず、祇園の芸子も、大政治家の元愛人も、左翼の過激活動家も、もりもり自分を語り出したのが、今の時代というふうになってきてはいるのだが・・・。
 あびる優の一件でまず思い出したのは、どういうことか見田宗介の『まなざしの地獄』である。網走番外地出身で赤貧から逃れ、尽きなく生きるために上京したNNは、出自を隠し、出自を問われるたびに、あたたかく向かえてくれた職場を逃れ、逃避行のすえ密航を企て、護身用に手に入れたピストルで「解放の孔」を罪なき人の額に穿った。中学の教科書を持参するなど、「生き直す」ためのせつない努力をし、そして「表層の演技」として、大学の身分証をつくるなど、偽りの自分をパフォーマンスする。ドキュソと言われる人々は、あり得ないようなゴージャスな自分物語を語ることがままある。それと同じで、そこそこ売り出し中の人間や、高学歴な人間のなかで、サングラスをかけたり、髪を脱色したり、つまりはちょいととっぽい連中は、「ワルだった自慢」をしたくなるモンなんじゃないかと思う。その底に凡庸なアイデンティティに安住することへの嫌悪があるとすれば、2ちゃんっぽく言えば、「必死だな」ではあるものの、それはそれで容易にカムアウトしないアンバランスへの誘いとして、理解できないことはない。まじめ一方の人が、ありえねーっていうような愚挙を犯す。そんな定番の物語を回避する知恵と言えないことはないだろう。問題は、「表層の演技」をする自分がどこまで馬路かっツーことのような気がする。
 認めてクン、したり顔クン、勘違いクンなどは、人にイヤな感じを与える。しかも、今はそういうものに対して、ことさらにシビアな時代である。「カミングダウト」というのは、かなりヘビーなネタふりも多く、谷原章介のサソリ騒動なども、クールな谷原がうぎゃーーとあられもなかったっつーことはすごかったし、マギー真司が昔泥棒だったというネタも、笑っていないツルベの眼どころのさわぎではないぶっ飛ぶようなマギーの微笑と上目づかいですご杉とか思ったけど、小倉優子だったか、アイドルの臭いフェチというのは、いまいち、え?と言うくらいリアリティがなかった。でも、ビデオ集団殺人クラブ「徹底的に証拠隠滅よ」でおなじみの小向美奈子が谷原にタランチュラするのは見てみたいとか思っていたけど、あびる優の強盗ネタは、ガキの頃のことということで、シャレの範囲と思ったのかもしれないけど、あびる優あびる優だっただけに、ネットで騒然となってしまったのでありましょう。
http://www.geocities.jp/abiru110/
 「昔ワルだった」と言っても、みんな納得する例はあるでしょう。田代まさしたちだって、単コロしていて、友だちが事故って氏んで、歌手になったという物語にはみんなけっこう感動したわけだし、ブラックエンペラーだかの総長も俳優になっている。禿げのヅラつけて一つ屋根の下のあんちゃんと決闘したりしていたのも記憶に新しい。そーいや、「カミングダウト」でジャーマネが元暴やんというのが、「トゥルー」だったっけな、谷原サソリの週に。w 「スクールウォーズ」なんかも、京都一のワルが、今は定時制高校の先生をやっているというのは、プロジェクトXで見たけど、馬路ションベンちびりそうなくらいホンモノの顔つきだったよね。
 黙る、ながめる、読む、カムアウトする、アイデンティファイするなどなど、能作の表現はいろいろあるけど、何か一つところに話をストンと落とすというよりは、いろんな要素を加味しながら、不安定であっても、話が深まってゆくような、そんな方向性で、ものを考えてゆくことは大事なんだろうなぁと思う。id:using_pleasure さん経由で知ったきしさんの話には、私も共感したし、恩師とも言える先生の退官出版の文章の手がかりにしたいなどと思っている。NHKスペシャルを見て、何かを語りたくなったという話。かなり長いし、あびる優で引用されるのは不本意かもしれないが、メモとして引用させていただく。かねたさんがこの文章をブログに引用されてから、何度となく読みかえし、やはりここにメモっておきたいと思った。

http://d.hatena.ne.jp/yeuxqui/20050207

「フリーター漂流」だっけ、例のNHKスペシャル。そこら中の人文系ブログで話題になってますな。みんな貧困が好きやな(笑)

俺も若い頃はジャズミュージシャンやら土方やらいろんなことしてましたが(まさか大学で教えるようになるとは思わんかったが)、ああいう製造業系のフリーターも一時期やってまして、ベルトコンベアの流れ作業はとにかくキツかったなあ、精神的に。フリーターのみなさん、ラインに入るぐらいなら、建築現場の方が百倍マシですよ。今でもよく覚えてるのは、一時期流行ったビールの注ぎ口、あの「ヒヨヒヨヒヨ」ってなるやつな。30代の奴は懐かしいだろ。あれをビールの樽缶に貼付ける。椅子に座ってただひたすらそれをやる。8時間やる。一秒も休みがない。すぐ辞めたった。

などとついつい自分のことを語ってしまう。上のリンク先でyeuxquiさんも思わず語ってしまってるが、俺と違ってなかなか泣かせる名文である。

あのNHKスペシャルは、いうまでもなくフィクションだ。でもあれは「よいフィクション」だったと思う。・・・(中略)・・・俺やyeuxqui氏が思わず自分のことを語りたくなってしまうような、よいフィクションだった。よい物語とは、それを聞いたあと自分も新たに語りたくなってしまうような、そんな物語である。

結局のところ、ある種の社会学がめざしてきたのは、そういう物語を生産することだった、あるいはそういう物語を聞いたり語ったりすることを、人間の合理性として理論的に根拠付けようとすることだったのではないか。言い古された話ではありますが、物語的な理解っていうのは、図式化したり数値化したり、ましてや「社会の処方箋を書くぞ!」てなマッチョな意気込みとは無縁で、思わず自分も語ってしまうような、内省的で自己省察的で反省的な理解のやり方だ。

Nスペをそんなにもちあげるつもりもないけど、明らかなフィクションでも何でもいいから、それについていろいろ考えることができるような物語っていうのが決定的に不足してるような気がするけど、どうですか。しかし、まあ俺が偉そうに言うのもアレですが、物語の社会学、あるいは物語としての社会学の解釈学的な理論化の可能性は、「強い」構築主義のエレガントで破壊的な浸透力によって、著しく狭められてしまった。おかげで今では、物語はミクロなコミュニケーションの<いま/ここ>の現場に閉じ込められてしまっている。われわれができるのはせいぜい、そのつどの会話の中であれやこれの「リアリティ」なるものを協同して達成する、その程度のことになってしまった。(なにしろインタビュアーに言い返すことが「政治的抵抗」として描かれるぐらいなのだ。)

フリーターが悲惨な生活してるとして、じゃあどうする?賃金あげたら競争に生き残れないぞ!……そんなことはどうでもいい、どっかの偉いヒトが考えたらいい(そのための地位と給料だろ)。俺が興味があるのは、あの若い夫婦はいま何してるんだろう、ということだ。そして、このままみんなフリーターになったら、世の中どうなるんだろう、ということだ。世の中どうすべきか、じゃない。

「会話」の外に出たいと思う。そして物語をもっと自由に書いたり読んだりしたい。そのためにはマクロな統計データも使おう。生活史を自由に解釈しよう。責任感ばかり先走った偏狭な政策提言でもなく、物語を言語使用にまで縮減するような「強い」構築主義でもなく、その中間(あるいは「中範囲」?)で、「資格のないものは黙ってろ」式の抑圧的で強迫的な世論誘導ゲームでもなく、語りとは発話にすぎないという冷笑的な「過剰な反省性」でもなく、それを読み終わった後で今度は自分が語りたくなるような、そういう物語を書きたいと思って頑張ってるんだけどなかなかスラスラとは書けまへんなあ。あれれ、書いてるうちに愚痴になってしもた。
http://www.osk.3web.ne.jp/~irabuti/

 ほんとうのことを言うと、「正義の憲兵」のように道徳談義をわいわいがやがやかまびすしくするのは、私はあまり好きではなかった。その背後には、軽薄なべしゃりでテンション高めな自分、とりわけそのお人好しな同意癖への自己嫌悪がある。しかし、ほんとうに憎むべきは、重厚に、軽妙に、あるいは瀟洒に、一刀のもとに人を黙らせる語りなのかもしれない。立場や、ジェンダーや、セクシャリティのちがいは抜きにして、こいつチゲーんじゃないかと思うときって、どっちかというとそういう憎しみがわいていることのほうが多い気がする。みんなが語るようになること、それをミルズは社会学的想像力と呼んだのではないか。これがずっと言いたかったことなんじゃないか。会ったり前のことでなにをテンパっているのかと笑われるかもしれないけど、今は興奮気味にこう語っておきたい気分である。