ディスポーザルCD?

 で、東京経済大学へ。時間ギリギリで、もう席は一杯だった。机に座れなかった人が、だんだんまわりに増えていって、部屋はかなり満杯状態になっていった。合評会の対象は、生明俊雄『ポピュラー音楽は誰が作るのか』(勁草書房)。評者:阿部勘一、増田聡、増淵敏之、細川修一。司会:大山昌彦。これがラインナップ。本について。アマゾンの書評を引用。

日本の音楽産業の変遷を俯瞰的に把握, 2005/01/24
レビュアー: 盥アットマーク (プロフィールを見る)   東京都 Japan
 “ポピュラー音楽”というとわかりにくいが、日本の大衆音楽つまり歌謡曲を音楽産業という側面から取り上げた研究書である。
 最初に、欧米の音楽産業の研究状況をまとめ、本編では大正時代の「カチューシャの唄」に始まりJポップに至る日本の音楽産業の変遷を時系列で追っている。

 平たく言ってしまえば、それは“レコード会社の役割”が徐々に縮小していく歴史でもある。レコードという媒体を通して日本のポピュラー音楽である歌謡曲が世に広まっていった大正時代、日本特有の作家専属制度によりレコード会社各社がしのぎを削った昭和初期、そして、アーティストプロダクション、楽譜出版社系音楽出版社、放送局系音楽出版社が原盤制作に参入し始めた1960年代。レコード会社以外が原盤制作にタッチするという流れはその後も止まらず、最近のデータではレコード会社単独による原盤制作率は3割にまで下がっているという。

 本書は、音楽産業の中でも流通面よりは制作面に重きを置いている点が画期的である。その分、1980年代の貸しレコード問題や、この1〜2年で急速に普及しつつあるネット配信などについての言及が少なく、物足りなさを感じる部分もあるが、日本の音楽産業の変遷を俯瞰的に把握することが出来る好著だと思う。

 明治の自由民権運動で演説会が弾圧され“演説”の変わりに歌で思想を広めた、それが“演歌”のルーツであり語源、なんて豆知識を得られたことも収穫だった。

著者がビクター、評者の一人がソニー。そこそこ業界ばなしなどもあって、また双方の得も言われぬ会話は、実業の世界を知らぬものには陰謀公家のような洗練を感じましたが、全体的に非常によい雰囲気で、しかしビシッと言うべきは言うってかんじで、興味深い議論をいろいろ聴くことができました。音楽産業を見てゆく場合のモデル化の問題と、もう一つは「レコード業界」の行方に関するやや楽観的な見通しについての問題の二つが、私には面白かった。前者については、本質主義構築主義、実体と関係みたいな議論まで飛び出し、おいおいまたここでおカァと思いつつも、さりげなくなかなかすまーとな概念提示もなされ、例解の水準の高さを実感した。後者については、「音楽をオーディオで聴く文化の消滅?」みたいな議論も飛び出し、面白かった。
 が、本が音楽産業論の話ということもあり、聴く側の問題が議論されなかったのは、ちょっと残念だった。つまりCDを買わなくなった人々の側の問題。マンガの販売数が減ったことも、アニメとのリンクでそっちに喰われるかたちでへっちまった、で、音楽もそうじゃないかみたいなカンジ・・・。もちろん既知の自明の前提としてあったのだろうと思う。CD聴くと捨てちゃう女子高校生がいるみたいな話もしていたし、CDじゃなくi-Pod売りまくって儲けるみたいな話も出ていたし・・・。時間をとって頂くのは申し訳ないので質問はしなかった。
 若い椰子の人口は減っているし、ニートだ、サルだ、馬鹿だで、マンガも読まない。金もないだろう。馬鹿とかサルは、そんなこともないんだろうけど、音楽における吉ギューの280円牛丼だとか、安マックにあたるのはなんなんかなぁ。で、ディスポーザルCDとか妄想したけど、まあCDそれ自体は二束三文だろうしねぇ。馬鹿らし杉。と思わず苦笑しますた。で、ブックオフ+レンタルCD感覚?なことなら、やっぱI-Pod系?でもむずかしそうだよね。少なくとも、ビデオの録画もろくにできない私には難しい。しかーし、それより問題なことがあると思った。音楽聴く文化がなくなることは、みんな勝手に作って、そっちの方が楽しいという文化になることとして語られていたわけだけど、それもまた楽観的かもしれないってことも考えた。つまり、音楽も聴かない、踊りも踊らない若者の登場。バンドも終わっている、踊りも終わっている。ヌラーッと座ってさ、アイスかなんか喰ってる椰子が、街でごろごろしてイルの図。あるいは、軍楽で歌舞伎まくりとかさ。日光ギャル軍団。ダジャレにもなりはしない。
 馬鹿な妄想膨らませていたら、肝心のモデルの話などが上の空になってしまった。まあボクは音楽の専門家なんかじゃないし。たとえあの中で一番風貌がアキバであったにしても、ボクはあの中で一番音楽のことを知らず、メカにも弱い人なのであった。