久世光彦演出「夏目家の食卓」

 配役を見ると、モロ「伊右衛門」であり、演出が久世光彦。こりゃあさ、やっぱり緑茶のCFを上回るような本格的で深みのある演出かと思い、見はじめたのですが、確かに本格的で深みがあり、かつ実験的なものではありましたが、予想とはちょいとちがうものであって、い?!?とびっくりいたしました。で、新聞のテレビ版を身ましたところ「夏目家の食卓〜文豪漱石ハチャメチャ人生支える妻もまた奇妙!?笑えて泣ける明治ホームドラマ」とあり、まあ、なつかしい!長いタイトルのドラマじゃござんせんかということですが、始まってまもなく、なんじゃこりゃ、なんか見たことあるぢゃんか。ううう、あ!そうか、寺内貫太郎一家ぢゃねぇのとか思い、そーいや樹木希林まででているじゃありませんか。昔なつかしいドタバタな展開に、樹木希林がツイスターツイスターで「ジュリ〜」とやらねぇかと、ワクワクしますたが、さすがにそれはありませんですた。
 文豪漱石の家には、書生から、わけわかめな教養人(岸辺一徳勝村政信ほか)、愛読者の女の人と思しきおばちゃん(樹木希林)までがあつまって、昼に夜にどんちゃんさわぎ。物狂おしき人々の逝ってよしなじょーだんな宴。だけどさ、勝村が裸踊りして、ぼかしまで入っていたのは馬路びっくりしたぜ。あと、突然岸田今日子のばあやが突然現れて、逝ってしまったりして。あまりにドタバタな展開で、寝るはずあったうちのバカ親も起きてきて、最後まで一気に見終わりますた。
 西欧と日本、近代と伝統の対峙をモチーフとしながらも、それを丁寧に分節し、脚本にプロットし、かつテレビという枠組み、制約の中で、しかもわかりやすく、どの年齢層にもアピールするものであり、姑息なCF入れなどを用いずとも人を惹きつけてやまず、チャンネルをかえさせないようなものでありながら、久世光彦ならではの作品世界、美学を伝えようというような実験的な意欲というか、まあ言うならば、久世やばくね?というような不安を感じさせるところもあるというか、とにもかくにも面白いものになっていたと思います。
 胃潰瘍なのに生卵ご飯を三杯喰って、血を吐いて、瀕死の状態になったとか。絶食命じられても、腹へった腹へったといい、温熱療法のコンニャクまで食らい、食い物のニオイをかぎつけて、這いずってきて、喰っているさまを見せてくれと言い、むすめにこっそりパンをもってこさせ、死の床にあってあれが喰いたい、これが喰いたいと、マラソン円谷選手遺書ともつかぬ妙な台詞を発しと、もう抱腹絶倒ワハハな世界でありつつも、それがせつないイメージに変容したりもし、そして、食卓にのった様々な魚、味噌汁、小鉢の類、明治の食卓の風景が、鮮明な残像となって残る仕掛けは、予定調和だ、図式的だという、批評語句の紋きりを見通しつつ、サクッと提示されていて、なかなかなかなかでありました。
 演じる役者さんたちも、ウンチクなイヤミのかけらもなく、つまりは都会的であり、説教臭い思い入れや陶酔とは無縁に楽しくやっていたことは、思わずイイというかんじでしたが、脚本の要求するものが、非常に難しかったんだろうと思うし、大変だなぁと思いました。これ以上灰汁を抜くには、編集やなにやらの工夫だとかがあるのかもしれないし、わかりにくくする方法もあるのだろうと思うけど、正月疲れのうちの親もワハハハハと最後まで見ていたわけだし、アテクシなんぞが、くだらねぇ理屈を言う前にこのことがもっとも雄弁に作品を語っているように思います。うちの親が言っていたこと。「明治にしてはずいぶんいいものを食べていたんだな」。「昔は大学教師って高給だったんだな」。この二点。しかし、生卵メシをかっくらって血を吹き上げて死ぬというイメージはよくもわるくも鮮明だ。
 できれば、久世光彦、あるいは脚本の筒井が小説なりとして、もう一度書いてみてみるとどうなるのか、興味深いものがあった。