今年言われた痛い一言と『近代経済学の解明』

 いろんな人のブログをみていると、今年の収穫だとか、いろんなことが書いてある。書籍、音楽、テレビから、演劇、お笑いなど様々なことがある。自分も何か書いてみようかと思うのだが、何も思い浮かばない。今年は、長年続けた文化社会学掲示板がぶっ飛んで、ブログをはじめるに至ったり、いろんな人々と研究会などを通して知遇を得たり、そのなかでみくしに招待されてそっちでもいろいろな人たちと知り合いになったり、そこにゼミの人たちも参加してそこそこお話をしたりしながら、ちょこまかと論考を発表した。年頭に実は新書のオファーがあったのだが、ザックリ切り口を示せなかった。まあ、若者に詳しいわけでもないわけだからね。詳しいのは10年位前までの中国地方の大学生とそれから今までの東京の女子大学の学生だから。そして、実は後者はけっこうネタ的には面白いことはあるけど、やはり職業倫理はあるわけだし、またそれが一定の作品性を結実するとは思えない。そこで一言。

存外野心はあるけど能力もないし度胸もない

 相談した、ある友人に言われた。まあね、売れてみたいと思わないことはないのだよ。老後のことを考えるとお金も欲しいでしょ。でもなかなか上手く書けない。これは若い頃、なかなか査読誌に投稿すらできなかったことといっしょだと思うな。問題提起をする気合もない。実は何より勉強が足りないと思う。地道な労作を目指せるわけでもない。日々自己嫌悪である。「それは枯渇していない証拠になるとはかぎらない」と皮肉に笑った友人に感謝。

英語できます?

 前に「英語読めます?」というのはあって、一応醜い反論を試みたが、今回は「できます?」ときた。これは、エクセレント!!か?ではなく、スネークマンショーのキャンユー・・・に近い。授業が終わったあと、とある四年生がきいてきた。なん**じゃいというと、とある友達が英語の再履修で苦しんでいて、助言が欲しいと言う。そんなことおれに聞くなよとは思いつつ、ヘンなフランス人からのオファーの電話で聞かれたときに言えなかった台詞=「あ・りとる」を答えるべきだろうかなどと思うた。

あいかわらず永遠の序章ですね

 これはとある友人から。実は私は予告編と、序章は得意なのである。それはたぶん読むほうも序章で切り口見つけると、はぁーそうかと思い、そこにアイディアを託してものを言う傾向が抜けきらないのだと思う。もっと自虐的に言えば、解説書+拾い読み esp.最初の方という読みでごまかしの勉強をしてきたからだと思う。そういうときは、杉本栄一『近代経済学の解明』(岩波文庫)を読む。説教臭くも、自慢めかした風もなく、本を丁寧に読むことの大事さが伝わってくる。この本に現在どれだけ学問的な価値があるのかは、素人の私にはわからない。しかし、読書法の本として、時々よみなおすことがある。
 間違いなくとりあげた学説はぜんぶ読んで、調べこんで書いている。思うに、自分は社会学史の通史を書くことができるのだろうか。つかいまわしのプリントではなく、整理しなおして、一度講義してみる必要があるかもしれない。今年もまた反省の多い一年だった。