〆切はみんなでやぶれば怖くない

 大学に行き、学食でメシを喰ったあと、図書館前をあるいていたら、他学科の人たちが空を見上げて、「雲ひとつない!」と魅入っていた。この前の教授会のおりも、日本文学科の先生が、「北側の窓から見える雲は美しいですよ」とおっしゃっていた。花鳥風月などとは無縁に生きてきた私は、この点での語彙はまことに貧困だ。「うぜー」「あちー」「さみー」と、きわめてどきゅそなものがある。本日は言うまでもなく、「きもちえー」である。うちのキャンパスは緑が多く、四季折々の美しさがある。語彙が貧困な私も、学校で習った言葉を駆使して、それをとらえようとする。桜、新緑はもちろん、夏の雑草だって、渡り廊下のあたりはなかなか美しいと思う。今の季節は紅葉がきれいで、実は携帯でとって写真をうぷしようと思ったのだが、保存できていないで、することができない。どうもメカは苦手である。
 社会学研究室で、おそるおそる紀要の〆切のことをきく。いちおう9月〆切なのだが、卒業式に間に合えばいいことを私は知っている。女子大在職30年に及ぶとも聞く、助手様に「ごめんしてけれねぇでしょうか?」みたいにきいたわけです。そしたら、なんと言うことか、まだほとんど出てないという話。WaO!!やったね!ざまーみろ!!などとわけわかめな、悦びがこみ上げてくるのをぐっと押さえて、「いつまでに仕上げればよいでしょう」などと聞く。「へへ」と言いそうになるのをぐっとこらえて。そうしたら、「卒業式に間に合わなくてよいなら、新年でもいいくらいなのだけど」というお話で、ちょっとドキ!だって、〆切をいいわけに、研究ノートにしようと思っていたから。おどおどしたら、速攻見透かされたようで、目がきらり☆と光ったように見えた。まあしかし、やっつけで出すよりはいい。お世話になった先生の退職記念もあるし、できるだけきちんとしたものを仕上げようと思った。
 その後授業。文化社会学。寝ている椰子が普段より増えた気がする。ほわい?そんなにネタがつまらないか?などと思ったが、よく考えてみると岩波ブックレットの土井本三回かかってやったので、間延びしたのではないかということに気づく。最初に「若者の消滅」論について、世代間格差の消失などという論点と絡めて、説明したときは、けっこうみんな熱心に聞いていたし。これで一時間やっちゃえばよかったかも。けっこう思考が回転していたのに。つまり、「若者」は動員の必要と困難などと絡めて、論じられ、つくられるってことをずーーっと話したくなっていた。60年代のヘイトアッシュベリーなものだって、もしかするとそうなのかもしれない。消滅した、ない、などと言って、キメたところで、なぁーーんの意味もない。イヤ、意味って・・・などということを、学生の反応をみながら話したかった。そんな風に思いつきを投げかけ、話し、時には反応を得て、思考をまとめることで、論考をまとめられた時代がなつかしい。そんな前のことではない。シラバスなんてものができて、ネットにプリントをアップしはじめた頃から、それがむずかしくなった。プリントを工夫すればよいのだろうか。つまり、レジュメみたいなものではなく、話しの材料みたいなものをもってゆく。それを読みながら、考えたことを話してゆく。その方がいいのかもしれない。そんなことを思った。
 その後卒論指導で質問に二人来たので、話し込んで気づいたら、八時前になっていた。結局今日も推敲は進まなかった。勢いで書かないとダメなんだけどねぇ。時間置くと、どうしてもお蔵入りにしたくなるし。あーあ。もうプールの時間だ。なにやってるんだろうねぇ。