査読

 自分の原稿を一字一句直されたくないという人もいるわけだけど、やっぱ直してもらうのは思わぬことに気づくので、よいことも多い。一度査読を受けると、病みつきになるところがある。査読依存症みたいな気分になる。特に、研究会などで原稿を叩いてもらったりすることができない者には、査読はまたとない機会なのである。
 それでも、ハイパーアカデミックな論文でない場合は、授業で原稿を話してみて感想を聞いたり、ゼミで原稿の報告をさせてもらうこともある。大学院生などは、そこそこのコメントもくれるし、そのコメントを聞いていると、大学院生の力量なども逆に見えてくる気もして面白い。しかし、すべてものを見てもらうわけにも行かない。社会学会で、パスワード付きの論文アップローダーをつくって、下査読とかしてもらえるようになると(・∀・)イイ!!とか、思ったりもする。
 いい歳していうことでもないのかもしれない。でも、匿名でアップロードして、意地悪な若手にボコボコにされるのは、それなりに(・∀・)イイ!!のではないかと思う。結果として、載せる気がなくなっても本望だ。母校の経済研究所の研究会で、雑誌『経済研究』に載せる論文を研究会で発表した教授に助手がくってかかって、ケロケロに査読というか、方程式の間違えとか指摘して、論文がアポーンになったみたいな話をきいて、(・∀・)イイ!!なんて思ったわけで、ネット上で向上できるのは悪くないと思うんだけどね。
 とはいえ、学会誌の査読を受けたのは、人生三回だけ。一回がアポーンで、あと二回は載った。アポーンは六年くらい前。恥ずかしい話という人もいるが、それでいいんじゃないかと思っている。もっとも、学会誌のあとがきなどを読んでいると、「本来指導教官がすべきことを査読者がやっている」なんていう編集委員の溜息が載っていたりする。スンマソンと心で手を合わせつつ、まあええやんけ、雑誌に査読者とかゆって名前が出るわけやし、などと思ってしまうことも事実だ。査読って、やる方も勉強になると思うけどね。
 いろんな人が書いているけど、ここ数年二度ほどお世話になった世界思想社という本屋さんの編集者の読み=「査読」と、あと校正の人のコメントはスゴイものがあります。ともかく事細かだし、ミスはもれなく見つけだして、コメントしてくれる。内容に踏み込んだコメントもしてくれる。いい加減に書いても、かなりイイ仕上がりになるのであります。味を占めると、とりあえずザッと書いて読んでもらえばいいやってことになるから、依存症気味になるだろう。著者校正も手抜きになるだろう。だって、引用文献の発行年月日まで調べてくれるんだから、私みたいないいかげんな人間にはまさに天恵でござるよ。二回そういう作業をやってもらい本当に感心した。
 しかし、そのうち予備校が、学会誌必勝講座とか、下査読業なんてはじめるんじゃないかなどとも思った。『社会学評論』の傾向と対策。まあ、そんなものに金を払う椰子がどれほどいるのかわからんがね。
 査読をしてもらったり、研究会で叩いてもらったりすることが重要なのは、やっぱりどんなに気をつけても、人間にはスケベ心というか、本筋と離れた功名心みたいなものがあるということだと思う。知識や、図式や、文献や、レトリックや、ロジックや、なにやかやに自己陶酔してしまい、よけいなところが水ぶくれし、肝心なところが言葉が足りなくなったりする。一週間くらいおいても醒めぬ熱病もあるということだろう。