くにたち修論救助隊

 朝起きて、成蹊大学へ。途中すき家で牛丼を食った。この前慶応の近くで喰ったときは、久々で美味かったが、今回は吉野家が米国産牛肉にこだわるわけがわかったような味だった。うちのぢいさんだったら、「こんな馬肉みたいな牛肉喰えるか」とか悪態をついただろうと思う。ものすごく工夫してつくっているのはわかるが、やっぱり赤身が多い気がする。健康にはこの方が絶対いいだろう。ぢいさんのセリフがでたのも、健康食にメニューを切り替えたことが原因だったし。脂身をチップにして混ぜるとかしても美味くないのかな?「脂身ダク」とかできたら笑える。で、社会学史の授業。みんなまじめに聞いてくれるが、退屈な話だと寝るのがわかった。しかし、ここはギャグがうけない。滑りまくりだ。うけようと思ってギャグを言うことはあまりないのだが、自然な流れでふっても、ほとんど摩周湖の水面のように静まりかえっている。ただ、こちらがツボな説明と思って用意したところでは、ぐっと前に乗り出すので、反応が悪いわけではない。いいクラスにあたったのかもしれないと思った。大学に帰り、ゼミの準備をし、訪問した四年に就職の助言。
 で、三年ゼミへ。今日の購読テキストは、月曜の文化社会学と同じ、辻泉氏の論考。けっこうレポートがおたおたしていたので、月曜の授業に出ていた奴に、「どんな話したっけ?」とふる。日サロ疑惑「美空ひばりが魚屋の娘ってこと」、サクラ疑惑「そうそう寿司屋の前の銅像」。ワシ「アホカッちゅーの。そんなことしかおぼえとらんのけ?」。二人「だはははは」。まあそのあとなんとなく、遊び、友人関係についての議論はつなげ、ポピュラー文化論へ。苦心して仕込んだプロ野球振興ライブドアネタ。つまり、大衆化=巨人、大鵬、卵焼き。差異化=どんなもんだいヤクルトファン。で、プロ野球の混迷。再興の道=ITはインフラたりうるかみたいな話。携帯入力で卒論書きたい椰子「松井顔ワル杉」。ワシ「君らさ〜・・」。携帯入力「ちょっと社会学な発言しちゃったかな」。ワシ「がちょ〜ん☆&%$・・・」。まあこんな話ばっかしていたわけじゃないけど、おもしれえ椰子らではあるな。終わってブログを見ると、June氏からのコメントがあった。

# june 『わたしの就職が決まったのは1月12日。つまり単位修得論文提出まで4日しかありませんでした。いったいどうやって提出したんでしょうね。謎です。(笑)』

 執筆がワープロならば、学会誌や紀要の原稿をまとめて、書き下ろし風の単位取得論文*1をまとめるのは、けっして異例のことではないと思う。正当なものだとも思う。そうだとしても4日はきついかなぁ。私の場合、岡山に行くまでは、ワープロを使ったことはない。岡山に行ってからも、清書用にすぎなかった。鈴木広先生に商業出版にはじめて書かせていただいたときに、急な書き直しがあり、友達にいきなり打ってみろとすすめられ、ようやくゼロから画面に向かって打てるようになった。要するに、単位修得論文は手書きだった。手書きだと、どんなに早く清書しても、1時間に5枚@400字くらい。200枚で40時間。400枚で80時間。前者でも2週間。後者だと4週間くらいかかると思う。だから、12月の内定もかなりきつかった。実は、どあつかましいことに私は特別研究生(助手)に志願した。学振のPDFは学内選考で落ちていたし、出すだけ出すかと思って。特別研究生の試験は、この論文が決めてで、諸外国で一次資料を集め、詳細に資料批判したような作品でないと受からない。にもかかわらず、はっつけたようなので志願したのは、ジル・ベッソンじゃないけど、「よくやるよ」であった。結局就職が決まり志望を取り下げた。その年特別研究生になったのは、たしか原聖氏。フランスの少数言語のことを詳細に調べた文句のつけようのない重厚な作品だったらしい。受けていても私は間違いなく落ちた。なにせ、最後は切り張りだからね。
 母校の図書館に行くと、修士論文の保存されている書架があって、それを見るのが日々の日課だった話は前にもした。主には、先輩たちの名作を見る楽しみだったが、清書の文字を見ることもあった。あわてて殴り書きしたようなもの。丁寧な楷書で升目をうめているもの。升目の真ん中に小さく丁寧に字を書いていっている者。どう見ても交際相手の女性が書いたとおぼしきもの。等々。そんななかで、ある時期から急激に増加したのが、10枚ずつくらい筆跡のちがう論文だ。これは、「清書部隊」などと通称された猛者たちの仕事である。ゼミごとに、清書が間に合わない人、大変な人のために、チームが組まれるのである。*2執筆者本人は、最後の追い込みで、徹夜が続き、ぶっ倒れている。平気で何十時間も眠り続けそうな勢いの、まさに爆眠。書いた下書きを、何人かで分担して一気に清書を仕上げるのである。20人いれば200枚で1人10枚の無償ボランティアということになる。
 なかにはスゴイ猛者がいて、〆切一週間を切って、数枚しか書いていないなんて言っている。単位修得論文じゃなく、修士論文ですよ。修士論文。しかし、なんとか最後は間に合いそうな具合。ともかくギリギリで、最初の方のまとまりをまず提出して、受付をして、あとはバケツリレーじゃねぇや、なんつーんだろう。書いたものを持って、コピーに走り、それを一枚ずつ受付場所に持ってゆくなんてカンジで、間に合わせた。最後はコピーとれなかったんじゃないかな。まあ下書きがあるから、それで面接は可能。審査が終わったら保存用にコピーをとればいいのだ。その先輩も、今は某公立大学の先生になっているらしい。単著もあるし。w
 いい意味にも悪い意味にもそういう時代だった。みんな無償で助けあった。終われば酒を飲み、打ち上げをした。私の学年が10人ちょい。入学直前にできた院生研究棟などは、部屋に余裕があり、私はほぼ個室で研究室を使っていた。住み着いて、煮炊きをしている人。洗面所で頭その他を洗っている人もいた。一番すごかったのは、ドイツ社会思想史ゼミ*3の部屋で、一室で研究し、もう一室には碁盤がずらっと並んでいて、モロ碁会所仕様だった。だけど、みんな猛烈に勉強していた。学問に誠実だったと思う。分厚い研究ノートを開き、「こんな生半可な準備じゃ講義できない」と真顔で言う先輩などもいて、戦慄が走った。そんな人たちがやっていた清書部隊だから、誰も問題にしなかったのだと思う。

*1:単位修得論文は、博士論文提出の権利を確保するための論文である。

*2:東京大学では有償の互助会があったと聞いている。

*3:当時の研究室はほぼゼミ単位。