社会心理史における方法の問題−−南博セレクション

 今日は休日である。しかるにハッピーマンデーなるものができて以来やたらめったら月曜日が休講になって、まずいだろうということになり、休日をつぶして授業をやるということになる。こうみえても私は、土日も出勤していることが多く、まあ仕事とその他の区別も曖昧なのだが、けっこう働く方だと思う。朝が遅いんだけどね。で、授業をやった。後期は、社会心理史ということで、戦後日本の社会意識の変遷を区分した仕事を片っ端から紹介して、90年代以降の社会心理について、考えてもらい、最後に論じさせ、そこからアイディアをもらい、来年の歴史社会学の授業に生かそうというものである。歴史社会学といっても、要は社会心理史で、南博氏が心理学的方法と社会学的方法を併用したのに対し、後者に力点をおいてなにかを考えてみたいということである。もちろん家元立ち上げ正当性主張既得権確保勢力拡大みたいな意図はじぇんじぇんない。っつーか、そーゆーのって、うざいよね。やりたい人はやればいい。こっちはそこから、なんか「横領」(スペルペル)できれば幸いってこと。まあ、飼い慣らされて「キャいーん」っていわせられておわりかもしんないけど。今日の授業は、辻泉氏のポピュラー文化の時代区分を取り扱った。
 その後研究室に帰り、明日の社会学史の準備をしたあと、書架から南博セレクション(勁草書房)をとりだして、ぺらぺらとめくった。自伝を含めた全7巻のほとんどが社会心理史とかかわるとも言えるが、総論的な論考が収められているのは、第六巻の『社会意識と歴史意識』である。本の帯にも、「社会独自の心理を明らかにし、その視座を歴史分析に摘要することにより、社会心理史という新たな分野を切り拓いた緒論考を収録」とある。目次は

Ⅰ.集団行動
Ⅱ.社会行動
Ⅲ.社会意識と歴史意識

となっていて、ⅠとⅡが「人間行動学」を提唱した南氏の体系的著作『人間行動学』から収録、そしてⅢが女性の心理、社会体制、若者、集合行動、民衆意識などに関わる論考の他、社会心理学の動向整理と、そして最後に「社会心理史の対象と方法−−おぼえがき」「歴史心理学の立場」というふたつの論文がはいっている。最後の「歴史心理学の立場」という論考を読んで、「歴史社会学」を社会心理系の授業としてやることを思い立った。
 ふたつの論文ともに、社会心理史を「人間不在の歴史」をおぎなうものとして提起することに眼目がおかれている。両論文とともに1987年の執筆であり、アナール学派の社会史の隆盛を意識しながら、社会心理史によってそこにコミットしようという気迫にあふれている。歴史に欠落している「心理的要因」を考察すべし。それは三つのレベルにわけられる。(1)個人心理のレベル、(2)集団心理のレベル、(3)両者に裏付けられた社会行為のレベル。こうした三つのレベルを、マルクス主義的な歴史観によって定礎することも、提起されていて、資本主義分析の「人間不在」に対して貢献をすることが宣言されている。
 歴史心理学の論文は、「個人心理史+社会心理史=歴史心理学」ということで、むしろ歴史心理学が今の自分の本意だと宣言されている。スタナードの「心理歴史学」、フロイトエリクソンの学説などを引用しながら、方法提示がなされている。私個人の考え方では、「心理歴史学」、「心理人類学」、「歴史社会学」などがあっていいなら、「心理社会学」があってもいいはずだなどと思っている。それならば、社会学社会心理学などという必要もないし・・・。まあしかし、こういう名称議論に血道をあげるのは、やっぱわたしには無理。
 最後の方で、ランブレヒトの「国民性論」が歴史心理学の例としてあげられ、日本における先駆的継承者として、三浦新七、上原せんろくがあげられていたのは、けっこうびっくりした。この議論は、南氏が長いこと勤務した一橋大学社会学部の設立理念などとも関わらせて、それなりの思いの丈を述べたとも思えないことはない。しかし、その後を読むと南氏は、自らが展開してきた日本人論へと議論を接続し、歌舞いているので、むしろ意図はそっちなんだろうなぁと思う。つまり、歴史心理学のひとつの達成が日本人論なのだということである。そう言うことで、この著作は単なる予告編を免れている。
 南博セレクションは、生前南氏が吟味に吟味を重ねて選出した論考をまとめたものであり、最初の方は南氏自身が解説を書いている。急逝されたあとは、市川孝一草津攻、折橋徹彦といった門下の方たちが、解説を寄せられている。一冊14000円という高価なものだが、なんかやっぱり買っておきたいなぁと、私費で買うことにして、でるたびに後悔しているとも言えるが、やはり自分の志望校を決める決めてとなった、『日本人の心理』『社会心理学入門』の著者だし、飾っておくだけでも御利益があるんじゃないかと思っている。ただ特筆しておきたいのは、ミード、ロイス、クーリー、サムナーといったあたりの学説理解は、余人が及ばぬくらい深いんじゃないかということだ。南氏は、けっしてものをむずかしく言う人ではないが、ミードの解釈など、サクッとすごいことを言うなぁと思うことがある。まーどーでもいいことかもしれないが。