『フロムヘル』再掲−−ブログ三月目の雑感

 あいかわらず起きるのが遅い。パンを食べながら、雑用をすませ、休日出勤した。まだまだ雑用が多い。それから、明日の授業のプリントをつくった。雑用とプリントづくりの合間に、書評を頼まれている本を、ゆっくり読む。若い人たちの本だし、なるべく編者よりは、そちらに詳しく論究すべきかなぁと思うからだ。しかし、それをやりすぎると書評としてはつまらなくなる。その本の学会的位置づけ、最近では教育的な位置づけなどをはっきりとさせ、一定の切り口から、こんな風に料理してみますた、みたいな方が読んでいて面白いはずだ。知っている人の本なら、小ネタもふり放題だけど、今回はそうもいかない。論文や本も面白いものを書く自信はそんなにないけど、書評はもっとそうかもしれない。証拠に、学会にげそつけて25年で、書評は読書新聞に頼まれた二つのみである。そんなわけで、ノーテンキに今宵もぶろぐ。
 ブログももう三月目になる。三日坊主の次は、三月だから、そろそろ危ないかな。これでもそこそこ作品性の芽のようなものはおぼろげながら見えてきた。しかし、ブログが一種露出狂的自慰であることは否定できない。三浦展氏は、終わっているぢぢい(たぶんアテクシのことw)はともかく、いい若い者が2ちゃんとかブログで自慰的な文章書いて自己満足しているのはイクナイとゆっておりましたが、禿げしく同意とまではいかないが、かなりそういう気はする。特に−−論壇にせよ、文壇にせよ、あるいは学会にせよ−−プロの書き手をめざすなら、そうなんだろうと思う。つまり、なかなか活字にならないところを、切磋琢磨して、言説を磨き上げ、ようやくデビューするというプロセスをとることは、それなりに重要ってことである。もちろん、他方にあるミニコミや自由ラジオみたいな運動の延長線上にネットを見つめ、だれでも一枚からCDなんかが売れるようになって、また評論家まがいをはじめられるようになったことは、面白い現象だというのは、従来より主張してきたことだけど、まあそれでも書いたことに責任はもつというか、テキトーに書き散らして、シラネというだけでは困るという議論は、もう一方の極としてつねに確認されるべき議論だと思う。
 おまえはどうかと問われれば、まあ終わってるっちゃ終わってるというのは、認めてもいいけど、一応は少しは考えて書いている。昔の書き手はワープロなんかなかったから、原稿用紙を途中まで書いては丸めて捨て、ということをくり返して、ようやく書き上げた。たぶん私も、全盛期−−そんなものあったのかとゆわないでw−−は、50枚くらいなら下書きなしで書けたかもしれない。それが今は、ワープロで、テキトーに撃ち込んで、編集して、ボタンひとつで印刷になった。前者が、ブログなどに書き散らさない書き方、後者が、書き散らす書き方。
 もちろんガス抜きと、自慰はあるよ。別に書き散らすのなんて、一人でもできるわけだし。それを人目にさらして、モチベーションを高めるみたいなことが、はっきり言えばそこそこ暇な人間には必要だということと、なんかケロケロになるくらいまで逝ってきますというのはある。書かないとホテルに缶詰になるような書き手はモチベーションもへったくれもなく、一流の編集者がつきっきりで、シビアなコメント浴びせるだろうから、ブログなんかやる必要もないわけだ。やっぱ若い人はそういうのをめざすべきだと思うよ。まあただ、学会的な仕事の場合、編集者よりも、研究会仲間や、査読者なのかな。それらが生息するあたりでブログをするのは、一定意味はあるのだろうと思う。しかし、活躍したいなら、ペリッシュ・オア・パブリッシュなんだろうね。
 実は忙しいふりしているけど、正直言って、ビデオとかも見ている。Stand Alone Complex の最新ようやく借りられたので見て、でもって田口トモロヲ監督作品の丹下左膳の椰子が出ているロックものは借りられなくて、クドカンのドラッグストアガールみたいなの借りてきて見た。いまいちで、ザッピング???、ビデオの場合は早送りしまくり。で、結局数回目となる『フロムヘル』をじっくり鑑賞した。最初に借りたときに文化社会学掲示板に書いたカキコを以下に貼っておく。感想は変わらない。
 168 名前: い 投稿日: 2002/07/15(月) 02:37 『ふろむへる』みました。ビデオっすよ。言わずとしれた切り裂きジャックのお話。原稿の関係でホラーとか、サスペンスとか、見過ぎたせいもあるのかもしれないけど、あんまし怖くなかった。冷静にみると、かなり残虐な映像も出てくるし、それがサブリミナルっちょく、シュパンシュパンと飛び交うんですけど、残虐性がスタイリッシュにキマっているとかいうわけじゃないし、シュールにつきぬけちゃっているというわけでもない。でも、なんかトラウマなんだよねぇ。カットスロートはともかくとして、ロボトミーみたいな施術とかは、目を背けたくなる。つーか、自分がやられているカンジ。ギザギザのついたドライバーの親玉みたいなのを頭にあてて、トンカチでかち〜〜んってぐあいで。まあそれはともかく、登場人物はみんないわゆるひとつの逝ってよしな人々。十九世紀末ロンドンの下層階級・中産階級と貴族、阿片、娼婦、ユダヤ人、被差別的な職業の人々なんかがくっきり描かれておりまして、それはそれでなかなか見応えがあります。で、切り裂きジャックは馬車であらわれるの。夕闇のロンドンの街を馬車が疾走するシーンなんかは、けっこうかっちょいいはずなんだけど、どうもなんかへなちょこなんだよねぇ。ペットショップボーイズの「ハート」のプロモのバンパイヤ思い出しちゃったりもした。この予感はピンポーンだったのですよ。最後の方で、ついに事件の真相がわかるんだけど、切り裂きジャックはな、なんとも、かっちょわるい、そうねぇ、コロンボ警部がバンパイヤになったみたいな奴なの。事件の真相が解明され、こいつがロボトミーでかち〜〜んと喰らって、ちゃんちゃんなわけだけど、全裸で恍惚とよだれたらしたジャック・ザ・リッパーの映像はめっちゃトラウマな残像になって残ります。ジョニー・デップは、妻を亡くし、人生棄てちゃって、阿片でテンパっている警官なんだけど、これが娼婦に惚れちゃって、抑えに抑えた愛が爆発するシーンはすばらしく、これがもう一つのこの映画のモチーフなんでしょうね。ラストはなんともクールでした。思えば超哀しい話なんだけど、どんな泣き虫の奴も、なんかあたたかい気分で見終わることができるんじゃないかなぁ。私は五百円玉を両目の上にのっけて、余韻に浸ったのでありました。正義や道徳をふりかざした啓蒙というものの弁証法というと、あまりに月並みだけど、そういうものがいかんともしがたく性懲りもないものでありながら、他方で命がけのおだやかさみたいなものがあるということは、とても清らかな気持ちにさせてくれます。ジョニーデップの部下のふとっちょ警官の最後の表情がなんとも言えません。ちゃんちゃん♪