『セックスボランティア』をめぐって−−パラリンピックを見ながら

 パラリンピックの様子が、かなり詳細に報道されている。何よりそれは日本人選手の活躍によるものだと思う。と同時に、『スラムダンク』の井上雄彦氏が描いた車椅子バスケットのマンガ『リアル』が人気を集めたり、人気俳優が主演した『AIKI』が公開されるなど、かなりの注目が集まっていることもあるのだろう。長く車椅子バスケットの指導に関わってこられた高橋明『障害者とスポーツ』(岩波新書)が6月に出版されたことも大きいだろう。情熱の伝わってくるいい本だと思う。岩波書店ホームページから、同書の紹介の一部を引用しておく。

 障害者のスポーツはリハビリテーションからはじまっています。スポーツが健康に良いのは誰にとってもそうですが、障害を抱えた人にとって、ともすると弱くなりがちな筋肉をきたえて残存機能を高めることは、二次的疾病等を考えると、ときには生命にもかかわる重大事なのです。また、家に閉じこもりがちな障害者がいろいろな人と出会い、自分に自信を持つきっかけにもなります。
 著者の高橋明さんは指導者歴30年。車椅子バスケットボールの全日本チーム総監督もつとめられていますが、日頃は大阪の長居障害者スポーツセンターで地域のスポーツ振興に取り組んでいる方です。その長年の経験から、歴史はもちろん、具体的にどんな種目や施設があるのか、パラリンピックの様子などにもふれながら、バラエティ豊かな障害者のスポーツの世界を紹介します。

 著者が冒頭で言っている「障害者スポーツ」というものがあるわけではなく、「障害者のスポーツ」という考え方が重要だという指摘には考えさせられた。私はこれまで、どちらかというと前者のように捉えるべきだと思っていたわけで、勉強不足を反省させられた。私の考え方は、「サブカルチャーのメイン化」という理論仮説のひとつとして「障害者のスポーツ」を考えていた。つまり障碍者のかたのスポーツは、健常者が思いもよらない能力を開発する。そこから健常者が学ぶこともあるのではないか。そう思っていたわけである。今度本を読み、そういう考え方もまちがってはいないが、まず最初に著者のように基本原則を押さえておかないと、不自然な美化や賞揚につながるように思った。
 「メイン化」という観点から「障害者のスポーツ」を考えたきっかけは、テレビで有名なロングジャンプの選手を特集していたからである。シドニー大会の前に、大きな新聞広告が出た。見えないところで助走をとり、踏み切って、暗闇に向かってジャンプする・・・、真の勇者のスポーツだ・・・みたいな広告だったと思うけど、この選手のことを特集していたのである。ジャンプの模様を撮影すると、非常に正確に踏み切る。「見えないのになぜ踏み切るのか?」。この問で番組ははじめられた。で、この人の暮らしぶりが放映されたのだが、つえも介助者もなしで、平気で歩いている。で、聞いてみると、まわりに何があるか、わかっているのにびっくりした。つまり、こっちには電柱がある。人が来た。自転車が来た。そんなカンジ。「誰でもできることですよ」とその方はおっしゃった。で、ゲストのタレントたちが実験をした。目をつむって、鉄の板とか、木の板とかを近づける。そうすると何が近づけられているかだいたいわかるのね。なーるほどってことになる。*1そういう力を健常者と言われる人が自覚意識することで、文化はより豊かになるように思った。
 同じようなことを『セックスボランティア』を読み返すたびに考えている。いわゆるシモネタという誤解されるのはイヤだったし、また聴くのは不快という人も少なくないと思ったので、授業では省いた話である。そういう話だということを確認し、以下は読んでいただきたい。
 「障碍者の性」という問題は『サブカルチャー社会学』でも触れ、そこでも性の商品化という問題と絡めて議論をした。『性と生の教育』という雑誌掲載の障碍者が書かれた手記をもとにした。*240歳すぎてリクレーションに連れて行かれ、これがパンダさんですよと言われても空しいだけという、悲痛な叫びは非常によくわかるし、それを紹介しつつ、議論をすすめた。勉強不足もあって、90年代なかばにはそのくらいしか資料がみつからず、そんな論述になってしまった。「性の保障」というのはそれはそれで重い問題である。しかし、今回『セックスボランティア』を味読し、この問題は性の商品化といった問題とからめず、いったん切り話したほうが、より議論がしやすいのではないかというふうに思った。『セックスボランティア』は、いろいろな問題提起をしているけれども、やはり障碍者における「性の知恵」がいろいろ紹介されていたことの価値が一番大きいのではないかと思われたのである。自慰の社会史などを扱う専門家がこの問題をとう考えているのかは、一度読んでみたいところではあるが、不勉強で調べていない。
 実は、私が思い浮かべたのは、ひとつの「自慰器具」のことである。商品名「エネマグラ」と呼ばれるこの器具は、前立腺を腸管と会陰の双方から刺激して、快感を得るものである。肛門から装着して、前立腺を刺激するのに熟達するとドライ・オーガズムと呼ばれる非常に強い快感が得られるという。この器具は、元々は前立腺肥大などの治療のために考えられ、そこから派生して性感が得られることがわかり、そちらの方で商品化された。尿道からの前立腺刺激による初期化ほか、様々な訓練法が話題になるとともに、その医療的な問題、危険性などがいろいろと指摘されている。「治療器具→自慰器具」というシフトは、ひとつの「メイン化」(病理から生理へ)として興味深い。これを障碍者が使えばいいというわけではないが、スポーツ用車椅子他の開発がなされているとすれば、障害者用自慰器具などはいろいろ医学的な専門知識に基づき、安全なものとして研究されてしかるべきものと思われる。もちろん女性のためのものもいろいろと研究されるべきなのだろう。
 現在の技術水準では、触感、温感、視覚、聴覚など、五感をとおしたすべての刺激を得ることができるはずである。そしてそれが、たとえば「肌のぬくもり」といった要素と対比され、セクシャリティのあり方として、ボランティアのあり方として、政策的対応のあり方として、議論されてゆく必要があると思う。*3さらに、障碍者の尊厳と、性的虐待といった問題とも、リンクさせて議論してゆくことも可能になるように思う。もちろん、これらは健常者も使用可能なものになるかもしれない。
 問題は性の問題に限ったことではない。障碍者の知恵や文化から、学べること、「メイン化」されるべきことはたくさんあると思う。先日ある研究会で老人介護ビジネス最前線の話を聞く機会を得たが、そこで面白かったのは、本当は必要ないのに、介護用入浴を頼む人が東京などではいると話である。健常者がそこまでする必要ないのだろうが、風呂に入れないことはないが、かなりかったるい人が呼ぶというのは、お金を払えばありだという理屈はわかる。
 ファミコンを開発した任天堂の責任者が、退社して、あることに取り組もうとした矢先になくなった話は、いろいろなところで書いた。そのあることとは、面白くてやめられなくなるようなリハビリ器具を開発することだったという。ゲームでリハビリなんてことは、今では当たり前になってきているが、10年くらい前に言ったというのはスゴイと思う。それは私の無知かもしれないけど。そうしたリハビリ用の器具やゲームが、「健常者」の間で大ブームになるみたいな話があったっておかしくない。障碍者、高齢者、あるいは田舎者の文化をサブカルチャーとして研究するということの意味がそこにあるというのが、ここ10年ほど考え続けていることである。女性、若者、「途上国」などの文化がメイン化しつつあるという議論にも、注目し続けたいと思う。

*1:遊牧民がスゲー視力があったりとか、そういうことを思い出した。

*2:実はこの本の執筆過程で、授業でこの問題を話し、社会人入学の学生さんと激論をたたかわせたことがある。議論は紛糾し、私では収拾がつかず、女性学を専攻されている方二人と、医療系の福祉の専門家一人をご紹介し、やっと議論がおさまった。

*3:他方で、障碍者の出会いだとか、いろいろな問題とも絡めて議論されてゆくことになるようにも思う。