中国映画『あの子を探して』と作品性としての「情」

 関連して、「情」で私が思い出すのは、中国映画の『あの子を探して』である。文化社会学掲示板に書いたことを、まとめておく。この映画は簡単に言えば、代用教員として小学校に臨時採用されたねぇちゃんと、その小学校のガキたちが織りなす人間模様ちゅーことか なぁ・・・、う〜ん、ともかくこの学校のなかでも一番の腕白坊主がまずしい家計を助けるために、街へ出稼ぎに行き、これをねえちゃんが探しに行くという話です。
 一人でも生徒を減らしたら、代用教員のギャラは無しみたいに言われたもんだから、ねぇちゃんもう必死。だけど、街に逝くには金がいる。この金をクラスのみんな で稼ぎだして、ねぇちゃんはよれよれになって街に着くんだね。クラスみんなでガキを捜す、そのために金をつくるという目的ができたときに、うまくいかな かった教育もメチャメチャうまくいくようになるなんて描写はなんとなく思想チックであり、デューイ=胡適ばりのプラグマティズムみたいなものもそこに読み とれます。
 だけど、スムーズにうまくいくわけじゃない。都会に無知なせいで、無駄金ずいぶん使うんだけど、肝心のガキは出稼ぎ先に着く前にバックレてゆく えがわからなくなっちゃう。ねぇちゃんはガキをひたむきに探すんだな。学校に行けない者も多い中国の農村の貧しさと、躍進する都会のゆたかさーー現代中国 の縮図とも言うべき図式なんでしょうーーが対比的に描かれているわけですが、どちらがどうのこうのというよりは、それぞれのよさと問題がリアルに提示され ているというカンジです。みんなでバイトして余った金でなにか飲もうということで、飲むのが、なんとコーラ。それを高いからみんなで分けて一口ずつ飲むんだな。アメリカ的なものを否定しているわけじゃない。そして、田舎の人も、都会の人も、それぞれに激しく自己主張するし、厳しく意地悪い面があるとどうじに、本質的には人情味があるというか、温かい存在であるという、いささか生温いけれども、突き抜けたところで赦しの境位みたいなものが映像表現として結晶化されているように思います。
 ねぇちゃんは、いろんな見知らぬ人の善意で、テレビ番組を利用することになる。それでガキは見つかり、全国から寄付が集まり、小学校は建てかえられ、ガキは借金を返し・・・みたいなことになる。そのあまりのインチキ臭さ、うそ臭さで、本当に描きたいリアルの臭さを消すとい う、離れ業になっているのはすごいっす。テレビの女子アナがガキに都会の印象を聴く、インチキ臭さの象徴みたいなガキが一瞬真顔になってゆった「食い物を恵んでもらったことだけは忘れない」という一言は、「情」の問題として、私の脳天に突き刺さっています。