山田真茂留「サブカルチャーの対抗的自律性・再考」を読む

 朝起きて、雑用を済ませ三田に向かう。慶応大学で生活史研究会があるからである。何年か前に学会ニュースを読んでいて、案内が出ていて、会員以外も参加歓迎とあったので、出てから会員になった。開放的でリベラルな雰囲気であると同時に、時にスリリングな議論が展開され、面白いことと、あとやはり大学院在学中副ゼミで生活史調査のゼミをとっていたこともあり、より研究を深めたいという気持ちから参加している。最初に出た有末賢氏の報告は調査方法論に関するものであったが、主要には重厚な調査結果を報告したものが多い。繰り返し調査を行い、記録をとったものを、報告二時間、討論二時間で、検討する。主題が何でも、非常に刺激になる。そのあと懇親会というのがあって、私は出たことはないが、話によると懇親会に行く人たちが「これからが本番」ということだったから、中野卓氏を中心として、めっさ濃い議論を行っているようだった。
 会場であるが、これまでは大正大学で行っていた。巣鴨の地蔵をおまいりして、メシを喰い、いざ研究会へというのが研究会の日の日常だったが、今回と次回は慶応で行うようだ。いろいろな研究会がもっと情報交換をしてオープンになるとよいなぁと思う。日曜社会学の案内などは、重宝でありがたい。しかし、まだまだクローズドなところはたくさんある。
 帰りに上野でとんかつを喰い、横浜に戻ってきた。きのう電送していただいた、山田真茂留氏の論文「サブカルチャーの対抗的自律性・再考」をざっとながめた。「差異化との戯れの彼方に」という副題のついた論文は、早稲田大学大学院紀要に近々掲載されるものである。私は、山田氏が東大出版の社会学講座に書かれた若者文化論に依拠して「サブカルチャーのメイン化」という議論を昨年の学会報告で提起した。その際、山田氏の議論を「融解説」として括り議論を進めた。私の議論は、切り込む視角を提示したものにすぎず、「サブ−メイン」という枠組みを恣意的に弄繰り回し、独断とレトリックでごまかすようなところがあったと反省している。山田氏の今度の論文は、私が「融解説」と呼んだ議論を、階層、差異化、オーセンティシティ(真正性)、距離といった社会学的な分析の柱をたてて太い論理を提示している。まだ改稿の余地もあるだろうと思うので、これ以上の言及はできないけれども、サブカルチャーをはじめとする文化社会学、対抗的自立性、相補性といった議論に感心のある人は、ぜひとも読むべき論文であると思う。穏やかな筆致ではあるが、私は勉強不足を痛感した。特に社会性をめぐる自分の議論の論理の細さを恥ずかしく思った。「動員論の戦略的提示」といった議論はなお命脈を保っているが、十分に検討しなおさなくてはならないと思った。明示的にではないが、結果としてみれば、これほど完膚なきまでにご批判をいただいたこともないと思う。しかし、本心からワクワク嬉しい気持ちがする。学会報告をして、ひとつも質問が出ずに、泣きそうになって帰ってきたことは、何度もある。実は昨年の学会報告は、女子大の社会学会紀要『経済と社会』に、子犬本などで書いたことを加筆し、論文化してある。ためしに「と」様ほか辛口の人々に送ったら、「詰め込みすぎ」と批判され、それ以上の発送を止めた。しかしやはり、山田氏には抜き刷りを贈らなければならない。
 実はまだちゃんと読んでいないのだけど、頭に突き刺さっているのは、最後の節である。細密な議論のニュアンスを味読する余裕はまだないが、集合的アイデンティティ論の決定論という議論を提示しているのが目をひいた。おそらくは機能主義における決定論の復活という指摘になっていると思う。アイデンティファイの論理という議論を用いるかぎりにおいて、機能主義に立つということはすべての免罪符ではなくなる。結局理論的な考察を煮詰めてゆくと、こういうところに逢着してしまう。ついでに言えば、メイルによる花野裕康氏との議論を思い出した。花野氏は次のことを教えてくださった。すなわち、決定論、実体論復活の論理的可能性の問題。たとえば、線形代数における固有値という議論の問題性とそれを打開する内部観測論の有効性。山田氏の議論がすごいのは、理論的なアポリアに逢着して、問題はあくまで深いとか、あるいは予告編的マイ思想を提示して、ちゃんちゃんとするのではなく、きちっと議論の主旋律であるパンクなどの議論に戻り、辻泉さんの表現で言えば「機能主義」、マートン流に言えば中範囲の理論を、ニートにまとめて終わっているところである。まんまを引用したいが、さすがに遠慮しておく。いずれ公刊される完成稿を参照されたい。
 少しだけ言い訳をするならば、私がロムバッハの『実体体系構造』を引用したわけは、アイデンティファイをする有論(オントロギー)を批判し、関係=機能に注目する有論を提示しているからである。そこに議論を引っかけておけば、すべては免罪されるとしていたことは安易ではあるけれども、なんらかの解決はこのオントロギー=機能主義有論の社会学化において、可能になるだろうとは思っている。この議論の延長線上に、山田氏の「距離」の概念をながめると、大きな可能性を秘めているように思った。論文をめったに引用されることがない私は、うれしくてはしゃいでしまったが、北田暁大氏など原理論に造詣の深い人たちがこの論文を読み、議論を活発にすることを期待してやまない。私では歯が立たないし。それより、荒川区長タイーホされましたね。