中井正一「日本の美」をめぐって−−間の社会学5

 間の社会学について考える場合に、現代のエスプリ141『いき・いなせ・間』などは重宝である。現代のエスプリは、今は書き下ろし特集になっているようだが、昔はリーディングスのような既出原稿より抜き編集になっていた。この巻は南博編集で、心理学、社会学、歌舞伎、能、踊り、演劇、浪曲、花柳文化、お笑いなどにも造詣の深い編者ならではの識見がうかがわれる。前に紹介した武智歌舞伎の論考もピックアップされている。後に編者は、『間の研究 日本人の美的表現』を講談社より公刊している。剣持武彦『「間」の日本文化』(朝文社)などともあわせ、研究を進めてゆきたい一冊である。
 ただし、こうした従来の研究は、型にしても、間にしても、あるいは呼吸にしても、いき・いなせにしても、伝統的な日本文化を扱う場合が多い。儀礼論・儀式論において、デュルケム社会学がゴフマン的に転回されたような試みが、この分野においても必要なのではないかと思う。ボケとツッコミに注目して分析を行った『社会は笑う』はこういう意味でも重要な作品だと思う。それにしても、間は日本的な伝統芸能に独特のモノなのか。外国人にはわからないものなのか。非日本的文化には間はないのか。あるいはいまどきの青年のコミュニケーション−−マンバとかひきこもりだとかばっかじゃないにしても、そこ−−に間はないのか。「チョー気持エー」はどうなるのか?そういう意味で、現代のエスプリ所収の中井正一「日本の美」はなかなかに刺激的な作品である。中井は、音、絵などの日本の美において、外国人が理解できるのは、その半面である「上り坂」の面だけであると言っている。もう一つの半面である、「峠を越えて後」の「閹(た)けかえる」、「下り坂」、筆少なく、音少ない空虚と静謐の部分は、外国人にはわからないと言う。なぜかこういう話になると、ポルノを思い出す。日本のポルノは、めっさ屈折していて、曲線的だと思う。
 この場合の外国人は、欧米人ということだと思うけど、きのうさんまちゃんの番組に出てきた、マンバなんかもそうなんだろうね。サティ、ケージ、オキーフみたいな新井満の言う「引き算芸術」、見田宗介新井満との対談で引用していたシュペルなんちゃらの詩が描いた森の不在、あるいはマクルーハンの言うクールな文化、つまりは最近で言うならば、若い椰子らのザッピング、絵文字、ワン切りから、空白の多い柔らかく細い柄図細工のような線のマンガだとか、チョー−じゃない?とか数少ない会話だとかはどうなるんだとかとりあえずのつっこみは入れたくなる。あ、そうそう、ヌーベルキュージーヌとかゆうのもそうじゃないの?喰ったことねぇけど。
 上り下りと足し引きの問題は、伸び縮みへと力業に転じられる。(・∀・)イイ!!中井は、端唄の「メリヤス」の例を引く。つまり端唄の場合は、メリヤスみたく、リズムがそんときそんときでてきとーに伸び縮みする。この案配に、独特の面白みがあることは、たしかによくわかる。それが外国人には鬼門なのだ。そう中井は言う。ビシッと合理的にずんずんとカッチリリズムを刻むんじゃなく、ゆるりとながしたり、のばしたり。押し出すだけではなく、時には引く。このようなリズムの問題を、中井は間の問題にかかわらせる。「間」「間が抜ける」「間のびする」「間がぬける」などの間は、時計で計る時間、メトロノームで計測できる類の問題ではないと、中井は言う。そして、例としてあげられるのが、お能の太鼓の「間」である。

 あの太鼓が「ポーン」と切り込む時、あの音を聞いていますと、それまでの一切の時間が、切ってすてられたような感じであります。それは決して、オーケストラのリズムのように、次から次に続くもののひとつを、聞いているような太鼓ではありません。
 前にも、後にもない、鋼のようにしまりきった時間を、ポーンと凝集しきった形できめつけるような太鼓なのであります。頭の中のものを切り裂かれたような快い気持にされて、何か、モヤモヤしたものが、全部一度に切って落とされるような感じであります。
 これこそ、日本の芸術全体にみなぎっている「生きている時間」なのであります。「時計の時間」に対立している「芸術的時間」なのであります。これまで普通は、時間は糸のように連続して、流れていると思っていたのに、ここでは、むしろ、切断され、切りはなされてしまって、ほんとうの自分がうまれかわったような新しさの中に、自分の生きていることを確かめているのであります。
 前の時間が、そのままつながって流れているのは、滞っているのであります。切ってすて、ぬけかわって新しく生まれるからこそ生きているのであります。
 あの能の太鼓などが一打ちでつくりだす時間、「間」はこの生きていることを確かめる時間の区切り、切断、その響きなのであります。

こういう話を先生がすると、まず指で頬を内側からはじいてポンと音をさせ、怒られただろうなぁと思う。*1シシオドシの幽玄ダゼ、ってか。アーヒャヒャヒャ。芸人芸人ウチウチ芸人とアホなツッコミを入れたくなるのを押さえて押さえて・・・。この間を合理的に訓練するマニュアルというのは、畢竟マヌケになるのは、理の当然である。マニュアルで覚えて、職場の若い者に「日航JAL軍団」とかまして、ひゃひゃひゃひゃひゃと自分ウケするのも、時空を切り裂き、とんでもない空白の魔をつくるんじゃないとか、いろんな場合分けをしなきゃいけない議論だとは思うけど、太鼓のポーンの意味は、鮮明にイメージされる。こうした奥義、訓練の論理は、一昔前なら神秘主義、非合理主義、感覚主義などのレッテルをある程度覚悟しなければならなかった。中井正一は、文章の末尾において周到に次のように言い添え、立場を表明している。中井の立場は、訓練や奥義を神秘化するものではなく、むしろその論理性に注目する立場である。『新左翼と非合理主義』萌え系の読者なら、「ヨシ!!」と溜飲を落とすところであろう。逆に、最後にマヌケなことを言い添えるなと、怒られるむきもあるだろう。間の訓練には「現実への深い信頼がある」と言った後で、中井は次のように言っている。そしてこの言い回しは、鶴見俊輔だとか、あるいはライト・ミルズの社会学的想像力の議論に親近的なものであるように思う。

 現実の中に「論理的なもの」「正しいもの」が必ずひそんでいることを、信頼しきっている感覚が、この「間にあう」というこころ、「間」の感覚の底にひそんでいるのであります。
 音の美を探るために、かかるこころの深さにまでたどりたどって、「間」なる特有のリズムにまで到達した日本の音楽を、私たちは、決してゆるがせに見のがしてはならないと思うのであります。

 ついでに言えば、恩師佐藤毅氏は『現代コミュニケーション論』のなかで、異化論という知見を吟味する際に、中井の議論を用いている。最近的に言えば、写像、変換の論理ということになるのかな。酔っぱらって、「イカだかタコだかしらねぇけどさー」とか、絡んで悪態をついたりしていたが、亡くなる前に「君はボクの異化論にイカれているからなぁ」と病床でわけわかめなだじゃれを言われ、私は一応それを継承するお墨付きをいただいたかたちになっている。
 さあて、今日はワールドダウンタウンである。火曜日だけは、異様にアクセスが多く、編集欄のリンク先などを見ると、ワールドダウンタウンばっかし。これが終わったら、かなりお客様が減るものと思われます。

*1:あるいは、年長者しかわからないだろうけど、サンダー杉山が手で脇の後をポンと叩いたまねとかね。実に情けない雷電ドロップとプロレスの見方をして言わしめた杉山は、一応ビル・ロビンソンに勝って、世界チャンプになっている。ロビンソンはダブルアームスープレックスでおなじみの強豪。今はプロモーターみたいなのやってるらしく、阿佐ヶ谷の福来飯店に名刺が貼ってあった。