大学教師の孤独−−教師も思いつきでものを言う

 またまたシンクロなどをみていて、起きるのが遅くなった。今日は、ゼミの5期生が同期会ということで、まず大学へ。モーニング娘。。。の五期生はゴキメンなどと言われ、ゴキブリ扱いされてしまっているわけだけど、ゼミの5期生はしっかりしたメンツが揃っている学年である。二ヶ月以上前から、会場と日程の調整をしていた。「これからランチ」、「今日飲むぞ!!」なんて連絡が突然その日に来る学年もあって、それはそれで面白い。突然だと、もちろんいけない場合も多いけど。ほんとは、毎月社会学の古典を言語で読むみたいな会を続けるのが、理想なんだと思うけど、まあ雑談の延長線上でゼミをやってきたこともあるし、できないのは教師の責任なんだと思う。大学に着くと、ゴキメンが来ていた。西荻の街や、キャンパスの新校舎などを見てきたようである。夕方まで話し込み、残りのメンバーもくわえ、同期会。十一時過ぎまで、話し込み解散。帰ってパソコンを立ち上げたら、昨日の日記に、id:Albini さん、id:editech さんから、トラバをいただき、見てみると、コメントなどをいただいていた。
 あまり調子にのって、レスするのは馬鹿みたいダヨなぁ。そんな躊躇を感じてしまう。そうか、そうか、もっと話がききたいか、ガハハハハと、[daisensei]ノリで歌舞いてみせやしょうというのも、まあ一種のエンターテインメントっつーか、幇間ちっくで、イキかなぁとも思うけど。とまあ、えばっている人も、そうでない人も、一定の年齢に達するとなかなか研究会でも、ゼミでも、うまくとけ込めないところがある。純粋に勉強のつもりで行っても、なんの魂胆があるんだとか、思われることもあるらしいし、若い人の視線も痛い。そういう意味では、ここのところサボっているけど、生活史研究会なんかはすごく開放的だし、儀礼的無関心で迎えてくれるし、純粋に向学心を満たすことができる。
 そーいや、うちの先生=佐藤毅氏も、コンパの時に、みんなが皿回ししたり、いろんな芸をして盛り上がっているとき、小声で、「あのさ、あのさ、ボクも芸ができるんだ。耳が動かせるんだ」と言い、こっそり芸を見せてくれた。耳はわずかに動いた。可憐な耳の動きと、芸を終わったあとの照れた顔を見て、先生も大変なんだなぁと思った。まあしかし、佐藤さんは「君今年ちゃんと修論書くんだぞ」「まあ、書けたら書きますけどね」「きみのそういうところが一番いけないんだ」などと、ズケズケものを言ったし、院生引き連れて、学会サボって旅行に行っちゃったりしたり、そこで院生たちが布団ムシとかするのをみて、うけまくっていたし、けっこう意思疎通した方だと思う。だけど、布団ムシにしようとしたら、怒りやがんの。あたりめぇかなぁ。
 まあしかしふつうの場合、教師はなかなか学問の輪に入れてもらえない。ゼミによっては、お世話係というものができたりする。コンパの時、となりに座って聴き役になる人。学会に随行する人。必要なときに先生に率直発言し、釘を刺す役の人。聴き役が、固定しない場合は、談話室とかで誰かをつかまえて、話をする教師もいる。「今日は○○がいけにえになった」などと陰口が飛び交っているのをきいたことがある。*1存外、学生も教師を必要以上に脅威に感じていることもあると思う。ちょっと注意したら、泣いちゃったなんて話すら、最近きく。学生運動で、教師を怒鳴ったり、つるし上げたりした経験のある人は、すごく当惑している。私たちぐらいの年代でも、団交で、「そんな論理構成じゃ修士論文も通りませんよ」とかつるし上げていたのいるからねぇ。もっとも教師の方も、レジュメのできが悪いと、こみ箱に捨てて帰っちゃったりするのもいたけど。ともかく、教師は孤独感があって、今風に言えば、「教師は思いつきでものを言う」。
 Albini さんの「なんとなく英語読めるようになったりしてたら余計わけわかんなくなるわい。まあ案外そういうもんでした的なものであって欲しい気もしなくもないが」というのが、いまだに私の実感であったりする。パソコンがではじめの頃、凝りすぎて、肝心の仕事がワケわかめになってしまった人がたくさん出た。同じことで、英語にはまりすぎてもしょうがない。たくさん読めたとしてどうする。外国の研究動向に精通する。流行をつかむ。古典を読み込む。いくら読んでもそれだけじゃしょうがない。「どんな英文をどんなふうに読むか」ということなんだろうと思う。
 editech さんの、イエスペルセンのNEXUSの翻訳術化という話は興味深かったです。私は、泉井久之助の『ヨーロッパの言語』(岩波新書)などを思い出した程度です。これは、日本語との対比ではなく、古典語との対比ですが、「格」の分析化=主語の明示、前置詞表現の洗練という説明は、言語の近代化=読みほどかれるべき論理的凝縮表現の形成として理解できるのかなぁなどと、思考を楽しみました。「読みほかれる土俵」は、古典語でも、日本語でもなく、ネクサスってことなのかなぁと理解しました。また、プログラムと読みほどきという話も、非常に面白かったです。普遍的な分析的土俵の意味について、悪あがきして考えてみたいと思っていますが。

*1:特徴のある先生だと、かげで物真似、声色をするのも、どこでもやっていることだろう。