ジンメルと両義性の問題

加護亜依に名前が似ているせいか、加護ヲタの元教え子が800メートル自由形金メダルに大騒ぎしておられますが、卓球のあいちゃんはなぜそんなに騒がれるのかわからないそうで、それはまあそうかなぁと思いつつ、前半戦ハイライトを見ています。あいちゃんの雄叫びは、ハッスル×2より流行る要素があるけど、やっぱ怒られるだろうね。柔道野村選手のところで、ファックス視聴者の名前をかりつつ「新聞一面」攻撃をしていたのには、笑いますた。だけど、やめるとは言ってなかったので、次が期待できますね。それはそうと、北島康介の「チョー気持ちエー」ですが、さっそく意地悪な『週刊新潮』が活用。北島が、AV嬢とイイなかかもって話で、「北島選手がチョー気持ちエー」といったかどうかわからないけどだって。これが言いたくて書いたんだろごるぁああって記事だったけど、笑うよね。柔道の鈴木桂治選手は、合コン好きらしいし、国の期待を背負い、心ない上官だかにより最愛の人と生木を裂かれるようなことになって、なお寡黙に、家族やいろんな人々に「おいしゅうございました」と哀切のきわみな遺書を残し、自刃したマラソン円谷幸吉選手はなんと言うだろうなんていう人もいると思うけど、やっぱ円谷選手が合コン好きで、「チョー気持ちエー」とかゆうくらいなら、幸福な人生をおくったんじゃないかなぁなどとも思います。
 プールへの道すがら、考えたのは東京においてきたケネス・バークの本についてである。両義性の問題は2000年くらいから考え出したことは前にも述べたわけだけど、再びバークを読み出した一つのきっかけは、文化社会学の講義で、ジンメルを取り上げたことである。モチーフは、長谷正人氏が文化社会学イチオシの書物として『ジンメルコレクション』(ちくま学芸文庫)をあげていたことである。

 ジンメルはこのエッセイ集のなかで、愛とか貨幣とか俳優とか肖像画とか取ってなどといった、誰もが知っている概念を扱いながらも、矛盾を露わにするまで徹底的にそれらの事象について志向してみせる。たとえば優れた俳優の演技は、それがすべて台本によって規定されているがために、逆に彼の内側から自然に迸りでた表現のように見えるだろう。このように「概念」のなかに眠っている自己矛盾を、文化現象を分析することのなかでもう一度「俳優のように」いき直してみせること。それが文化社会学の実践である。(長谷正人@『洋泉社ムック社会学入門』の書評)

 『文化社会学への招待』(世界思想社)で展開されていた、遊びをめぐる拘束と自由の問題に対する長谷氏の自説がここにも確認できる。つまり拘束されているから遊びの自由はあるという論点である。バークを読み解く上で、重要なのは、バークがもつ一種の知識社会学的な視点における「眼の位置」である。端的に言えば、その超越性である。長谷氏が提起する文化社会学の実践は、「『俳優のように』いきなおす」ことを提起している。ここに示唆されている「眼の位置」は、ジンメルの新しい読み方を示しているようにも思われた。
 このような意味合いで、知識社会学の視点を読み取ることができるのは、「いかなる意味でも文学者ではなく」(1900年)ではないかと思われる。ジンメルが、旅の道すがら御者から聞いた逸話をめぐる「文化社会学の実践」である。逸話を要約しておく。鍛冶屋夫婦と弟子の話である。弟子は腕がよかった。親方以上に優れていると言ってもよかった。同時に、弟子は篤実だった。なもんで、いつかはとってかわられると、鍛冶屋夫婦は弟子に驚異を感じた。殺しちまいなよと妻。それはやベーだろと夫。で、夫婦は弟子の目を突くことを計画。それも矢部ーだろごるぁああっていうのはともかく、やっちまうことに。夫はビビって逡巡。しかし、妻がおまいさんやっちまいなとゆったかどうかわからんが、たきつけて目を突かせる。片方の目を失った弟子は残ったもう一方の目を見開いて、親方の女房をじっと見据えた。その瞳には深い心の痛みと熱い想いとがあり、それを見た女房は、あっと叫んで松明を投げ捨ててしまった。火事になって、哀れ三人は黒こげに。

 御者のこの話は、私には宿命となった。当時、私は、自分は文学者だと思っていた。御者の話は、それ自体が文学作品の可能性を秘めた素材であった。火薬のなかに、爆発を起こさせるエネルギーが潜んでいるようにである。しかし、私には、この一瞬のうちに凝縮された運命を芸術作品に造り上げることはできない、と分かったのだ。女のイメージは、何度も私の心を占めた。自分が敵だと思った男を片づけようとしたそのときに、男の愛が自分に向かってやって来て、それまで憎しみの仮面をかぶっていた愛の感情があらわとなった、あの瞬間の女のイメージがである。
 同じひとつの揺らめく炎が、一方で魂にぐいと食いこみ、同時に、他方で身体を焼きつくす。私は、女の心のなかで天国と地獄が出会った残酷な瞬間を、何度もありありと感じることができた。その瞬間は私をしっかりと捉えてしまい、私は、瞬間を超え出て、その縺れを、ひとつの平らな形象に置き換えることができなかった。瞬間は閉じたこわい力となって私に立ち向かっていた。瞬間の呪縛を解き放ち、ひとつの芸術的な形象を造り上げることは、私にはできなかったのだ。そのとき私は悟った。現実は私にとってあまりに強すぎる。私は文学者ではない、いかなる意味でも文学者ではない、と。

 「何度もありありと感じること」はできても、「瞬間の呪縛を解き放」てないジンメルは、「いき直す」ことにより、文化的現実の両義性を露わにしてみせる。私の問題関心からすると、ポリフォニックな両義的な微細なニュアンスを、あますことなくありありと感じるという方法の提示、誤解を恐れずに言えば、現象学的、かつ知識社会学的な視点の提示として、印象深い。こうしたジンメルの方法を、最も明確に示しているものの一つのが、「橋と扉」(1909年)であると思う。そこで問題としているのは、分離と結合という対立項である。
 自然界では、すべては両義的で、分離しているとも結合しているとも言えるが、これに対して人間は、いろいろなものを結びつけたり切り離したりする。一方は他方の前提で、分離したものだけが結びつけられる。分離するものは結びついたものだけ、分離により結びつきは顕著になる。そうジンメルは言う。どちらとも言えるような両義性は、人間的な事象にはないとし、人間的な事象の両義性=両義的なものの相互前提という論点は、確認されるべきであると思われる。

結合と分離のいずれが自然な所与と感じられ、いずれが私たちに課せられた仕事と感じられるか、それによって私たちのあらゆる行動が分離される。直接的な意味でも象徴的な意味でも、また身体的な意味でも精神的な意味でも、私たちはどの瞬間をとっても、結合したものを分離するか、あるいは分離したものを結合する存在なのだ。

 結合するものとして例解されるのは道、そして橋である。結合を視覚化するこれらは、それにより分離を際立たせる。それは特に橋において顕著である。分離するものとして例解されるのは扉である。それは無限の空間から一区画を切り取り、ひとつの意味で統一体=小屋をつくる。小屋が結合を際立たされるというくだりは、ジンメル生の哲学を象徴しているようで興味深い。

 こうして私たちの生のダイナミズムを支配している諸形式は、橋と扉をつうじて、目に見える形態となり、確固とした持続性を獲得する。私たちの運動の機能や目的にすぎないものを支えているというだけではない。橋や扉の形には、そうした機能や目的が、いわば直接私たちを説得する造形性として凝固しているのだ。


 人間は、事物を結合する存在であり、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在であり、かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ。だからこそ私たちは、二つの岸という相互に無関係なたんなる存在を、精神的にいったん分離されたものとして把握したうえで、それをふたたび橋で結ぼうとする
 そして、同じように人間は境界を知らない境界的存在だ。扉を閉ざして家を引きこもると言うことは、たしかに自然的存在のとぎれることのない一体性のなかから、ある部分を切り取ることを意味している。たしかに、扉によって形のない境界はひとつの形態となったが、しかし同時にこの境界は、扉の可動性が象徴しているもの、すなわちこの境界を越えて、いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて、その意味と尊厳を得るのだ。

 あまり学問的な厳密な議論ではないけど、「戦争の昇華」を考えたバークとの関わりでこうしたジンメルの議論を考えるには、当然闘争だとか競争だとかいった議論、内集団と外集団をめぐる議論などと対比させて考えればいいのだと思う。また孤独論などとの関わりでこれを考えることもできるだろう。*1最後に、修士論文以来再三引用してきた寺田寅彦『天災と国防』を引用しておく。*2

「人類が進歩するに從って愛國心も大和魂も矢張深化すべきではないかと思ふ。砲煙彈雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに尊い大和魂であるが、○國や△國よりも強い天然の強國に対して平生から國民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのも亦現代に相応しい大和魂の進化の一相として期待して然るべきことではないかと思はれる。天災の起こった時に始めて大急ぎでさうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣ではない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発揮にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があって然るべきではないかと思ふ次第である」。(仮名遣いあとで調整)

*1:次のようなみんなぼっち論は、この点で示唆的である。「社会学者のG.ジンメルに『二人の孤独』という考え方がある。このことばから、ひとつには、恋人や夫婦が向き合っているにもかかわらず、お互いの気持ちが離ればなれになってしまい、ひとりのときに感ずる孤独よりもさらに強く孤独を感じてしまうことというとらえ方が浮かびあがってくる。しかし、ジンメルの考え方は、それにとどまるものではなく、むしろ、それとは異なる視角からもとらえられるものである。それは、ふたりが結びつけば結びつくほど、気持ちがお互いにのみ向きあっていき、その結果、周囲の人々との人間関係からふたりが切れていってしまうことである。ふたりが結びつくエネルギーが強ければ強いほど、他者へエネルギーをさくことを許さないとでもいえようか。ジンメルから読みとれるそのような考え方は、<ひとりぼっち>ではなく<ふたりぼっち>という問題設定を提起するといえよう」。(藤村正之他『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣

*2:今までは岩波文庫の評論集から引用していたが、最近古本屋で岩波新書赤版を入手した。100円だった。