ケネス・バーク『動機の文法』を読み返す−−両義性と文化論

 あいかわらずの五輪ボケで昼頃起床。外出して、高円寺でメシ。今日はロバートホールもなく、じっくり五輪観戦。うだうだしたあと、ケネス・バークを読み返しはじめた。途中プールに行くも、いつになく、いろんな本をザッピングしつつ、読解。とはいえ序章のし。なさけねぇ。言うまでもなく、バークは、ミルズの動機の語彙論やゴフマンの上演論的な視点に影響を与えた人である。再三ブログでも言及している両義的な文化論をミルズとの関わりで議論して行く場合、鍵になるのはこのバークだと考えている。前に書いた文章から、バークと両義性について書いたところを、約言すると次のようになる。
 詩人や作家は、生き生きとことばをあやつる。限られたことばのおりなしから、手品のようなあざやかさで、作品という豊穣な世界をつくりだす。バークは、こうしたことばのダイナミズムをドラマとしてとらえ、その枠組みを問うことを、文芸批評の方法とした。社会学的にみれば、バークは、普遍的な存在であることをめざしている文芸作品を、ドラマとしてとらえることで「相対化」し、「知識社会学的」な考察をしたと言えるだろう。こうしたバークの方法は、「ドラマティズム」と呼ばれる。バークは、こうしたドラマティズムを文芸作品に限定していたわけではない。つまり、ことばのドラマ性は、人間一般の日常生活、さらには人間存在の本質と関わるものと考えた。そして、人間行為の様々な「動機づけ」、そこにダイナミズムを与える諸々の背反する二価値に焦点をあて、様々な人間ドラマを解明した。バークは、ダイナミズムの本質を、弱者の排除、迫害など人間本質の「クライ」部分に光をあてる「スケープゴートの劇」にみている。そこで、「敵視」をたとえば「愛」に変えても、問題は解決しない。「憎しみの呪文」が「愛の呪文」に変わった以上の意味はない。
 こうしたバークの両義性論は、70年代なかばの日本において、一つの文化論的な文脈において光をあてられたものである。当時、文化の両義性についてまとまった論考がまとめられた。題名はそのものズバリの『文化の両義性』(岩波書店)。*1そして、おそらくは山口のヲタであったはずの浅田彰が、構造主義批判という文脈で思想史的なコンテクストを開示し、クリステヴァ、K・バーク、バタイユバフチンフーコーなどに言及しながら、クリアカットな議論を提出した。一つの文化論がここに定礎されたとも言えるように思う。拙著でも引用した文章を引用しておく。

 いわば定石として考えられるのは、構造と、構造の編目からこぼれおちたカオス的な部分との(例えば言葉で言えることと言えないこととの)弁証法的相互作用に注目することである。秩序と混沌、抑圧と侵犯の弁証法の現代的再生、というわけだ。この弁証法は、中心/周縁、表層/深層などの劇として変奏され、多彩な展開をみせつつある。それによって、従来は光の領域とされていた文化を、光と闇の双方を孕んだものとしてとらえることが可能になった。文化の理論からコスモロジカル・ポエティックスへ、というわけである(浅田『逃走論』246-247)。

こうした議論は、一方で真木悠介、栗原彬、他方で西部邁まで様々である。前者は史的な弁証法と未来構想の社会学を志向するものであるのに対し、後者は保守的な精神から未来への弁証法を志向せず、ナイフエッジのような両義性の狭間で、踏みとどまるスタイルを志向している。最近では、対立するものに線引きをせず、双方を肯定的にとらえることなどが、フーコーの読みとして提起されるにいたり、弁証法への批判が行われている。ここで三溝信『社会学的思考とは何か』が、弁証法について「過去−現在−未来」という枠組みでとらえることとしていることを確認しておきたい。近代社会学史においては、対話的な弁証関係が、こうした一種の発展段階論として解釈されがちなのはたしかであろう。逆に言えば、弁証法批判とは単線的な実体的な発展段階論批判であるとも言える。
 単に、「両義的なものの狭間」、「不安的であやうい均衡」というだけでは、とどのつまりはレトリックになってしまうのだろう。バークについて、そうは言いつつもいろんな対立項を思想カタログようにして提出した功績は否定できない。しかし、もう一つ、『動機の文法』の序章で次のように言っていることは、忘れてはならないだろう。弁証法批判や、現代の様々な思想的試行を見通しているかのようにも見える

 完全主義者ならば、多義性からも矛盾からも自由なタームを展開したいと思うかもしれない。たとえば記号論理学や実証論理学が用いる用語の理想がそれである。だが、われわれはそうした理想とは異なる意図をあたまに描いているのだ。おそらく、本書の出発点となった「喜劇論」の痕跡をとどめているような意図である。われわれの前提はこうだ。すなわち、人間は自分で世界を創造することができないかぎり、動機の問題について本質的に謎めいたものがなければならない。さらに、この背後によこたわる謎は、動機を表現するための用語の間に生じる不可避的な多義性、矛盾として発現する、という前提である。したがって、われわれが望むものは多義性を回避する用語ではなくて、多義性が必然的に生じるような戦略的個所を明瞭に描き出す用語、である。

最初の本を書いたときに、現実分析のなかで対立項を採りあげて、単一のそれで説明しきるのではなく、対立項を増やして行くことで、より微妙なニュアンスを明らかにしてゆく方法を提起した。*2ミルズのなかでは、このようなバークの方法は、ウェーバーの理念型による個性記述的な方法や複眼的な歴史観、ミードの実体的な原因論批判、ヴェブレンにおけるオキシモーロンなどのレトリック、そしてバルザックの『人間喜劇』などとむすびあわさり、『ホワイトカラー』へのモチベーションが形成された。その核心には動機の語彙論がある。

*1:岩波から発表された哲学叢書の一冊。この叢書は意欲的に史的唯物論構造主義などに関する挑戦的な論考を集めたものだった。

*2:「n象限への意志」 だとか、「n象限探求図式」などという、いささかまぬけなことばを使ってしまった。