論文の礼状について

 男も子育てに関わろうという育児時間の運動を実践され、岡山でもメンズリブの研究会をやっていらっしゃったT氏から、論文が電送されてきた。『現代のエスプリ』に掲載されるとのこと。福沢諭吉研究の観点から、この問題に取り組まれてきた労作であり、非常に喜ばしいと思った。男性史の研究会などもされているようで、そういうものができたのかと感心した。私は、この問題に言及できる識見があるわけではない。ただ、昔伊藤公雄氏をT氏たちが講演に呼ばれたときに私もたまたま出席していて、伊藤氏の男らしさの鎧を脱いで自由に生きようよという議論に共感を示しつつも、男らしさを超えた自立について規範倫理を定立しようという主催者側の方向性には、伊藤氏とは少し違うものを感じるし、論調として疑問を感じるという趣旨の発言をそこで行い、別所でも同様の発言をした。*1今回も同じような意見の相違を感じたので、素人が言うのもなんだと思ったが、伊藤氏が脱鎧論に止め、明確な規範を定立していないことへの著者の解釈について、若干の疑問をメイルで送った。長いご質問のメイルをいただき、返信して今にいたっている。
 多少ご不快をおかけしたかなぁとも思ったけれど、儀礼的な賞賛だけではすませないほうがいいというのが、私のやり方である。無理に批判的なことを言ったりはしないが、相違くらいは確認する。なるべくなら、「封書」クラスの対応をしたいと思うが、最近はなかなかそうも行かない。その場合、手短にガツン、ストン、ピタッと来るようなことを言う葉書的な礼状術があればいいのだが、それはなかなか大変だ。この辺は、学会には悪魔のように上手い人がいて、そういう人には必ず献本するようにしている。逆に、苦労してお礼状を書いていただいたなぁと思うこともある。悪いので、「気がついて、何かあればお礼状を」と書き添えて、献本したら、某大先生に怒られたことがあるという話は、以前にも書いた。昔、さる大家がそういうことをして、話題になって、まねをする人が続出したらしい。
 大先生の中で、信じられないような丁寧な返信を下さる方がいる。若い頃は味を占めて、相手の時間の浪費も考えず、送りまくったことがある。高橋徹氏などは、引用文献を丁寧に見てくださり、これは読んだか、あれは読んだかと、指摘してくださった。「トム・ヘイトゥンの博士論文は高橋氏のみがもっているが、閲覧できない」というような一文が片隅に書いてある本を献本したときには、手紙を添えずその論文を送ってきてくださった。十年近く読みたいと思っていた論文と対面して感激したことがある。他にも封書で、厳しい批判をしてくれたりした先生などが多数いて、学問していてよかったなぁと思うことは多い。学会などで人と会っても、上手く挨拶もできないような性格で、こういう手紙を通した交流は、唯一の学会交流の手段だと言ってもよい。
 しかし、こうした交流は難しいし、限界はあると思う。幸福な人とは、論文を投稿前に、研究会などで叩いてもらえる人である。学生時代だけではなく、中堅以上になっても、「照り焼きにされる場」のある人は本当にうらやましい。この点で、私が学生時代の一橋の経済研究所はすげかった。一つだけ、そのゼミに出ていたんだけど、ヴェブレンを一回50〜100ページ進むので、泣きそうになってやった覚えがある。まあでも、あたったときしかちゃんと読まなかったけど。そういうところがアテクシのだめなところなんだろうな。それはともかく、経済研究所だけど、テリブルな切磋琢磨があることは実感できた。「この前さ、教授が『経済研究』に載せる論文の報告したんだけど、それに助手が噛み付いてね、方程式一本のことでケロケロにやっつけて、結局その論文ボツになってやんの、アヒャヒャヒャヒャ」とかゆっているわけ。すごいよね。もちろん助手は迫害されずに昇進したらしいし。
 中堅以上も報告できる場所として、学会があると思うけど、いまやちゃんとした議論できないしね。なんか論文書いたとか、本出したとか、宣伝に行くことの方が多いッすよね。そういう場があればイイと思うんだけど、なかなかないでしょ。[daisensei]のなかには、自分のゼミで報告したりするひともいるらしいけど、孤独だと思う。[daisensei]じゃなくても、地方の大学で研究会などに出にくい場合も一緒ね。COEとか、学振の学外委託による交流とか、いろんなチャンスもあるけど、やっぱ一番いいのはレフェリーつきジャーナル投稿なんでしょうか。
(一部を削除いたしました。)

*1:沢山美果子ほか『性を考える私たちの講義』世界思想社の対談。この本も岡山大学での講義をまとめたもの。その後もう一冊沢山氏たちは出版されている。