食堂車

 朝一で社会学概論の試験があり、その監督をする。そのあと、雑用。非常勤講師の先生方への依頼メールなどを書く。カリキュラム移行期なので、なかなかややこしくて、あたまがわけわかめになる。うちの大学は、金額がめっさ安いらしい。ただ昔は、日本で最も私語のない大学などと言われていて、いろいろな先生方がご出向くださった伝統があり、その伝統を受け継いで、今でもよい先生方がきてくださっている。でもっていよいよ新幹線へ。岡山に赴任したころは、いちばん早いひかりでも、四時間以上かかった。今は三時間ちょっとである。車中弁当を食った。アテクシは、けっして駅弁は嫌いではない。沿線の大阪の八角弁当、姫路のアナゴ寿司などは駅弁の横綱クラスだと思う。神戸のアイディア社長の駅弁もうまい。うしの弁当もカレー味じゃなきゃと思うけど、水準はめっさ高い。伊勢の赤福だって、飯代わりといえば飯代わりだ。前に一人で一箱喰ったら、吐きそうになったが。しかし、東京駅の駅弁はあんましうまくない。一時深川飯とかうまいと思ったけど、あれなら昔のワイルドなとんかつ弁当のほうがましじゃんか、などといちびりかましたくなる。じつは、O-bentoとかゆう、ちょこざいななまえの弁当屋の弁当はけっこううまいけど、駅弁だからさ、カロリーとか書かないでほしいよ。めしがまずくなるじゃんか。
 なんとことを考えなくてはいけないのは、食堂車がなくなっちゃったからだ。私は、学生時代に給料取りになったら、一人で勉強できる部屋を持ち、クーラーをつけ、そして食堂車で飯を食うのが夢だった。ユースホステルの貧乏旅行で、セクハラまがいの変なゲームやらされながら、各地を旅行したけど、食堂車に行ってみようかと思い、行ってびっくり、いちばん安いカレーでも、何食分かであり、辞去するわけにもゆかず、さめたみたいなたいしてうまくもないカレーを喰ったのは忘れない。となりの席で、金もってそうなおっちゃんが、ハムサラダにビール飲んでいた。でもって、ビーフシチューかなんか食って、シーハーしながら、出て行きやがった。俺もいつか食ってやるなんて、もう気分は浜田ショウゴだったよ。でもって、給料もらえる立場になって、帰省するときに、喰いましたよ、ハムサラダとビーフシチュー。
 だけど、苦い味だった。というのは、岡山に赴任するときに、今まで旅行なんかしたことなかった、両親がついてきたんだけど、母親は初めての新幹線で、うきうきしていて、新幹線の中をがきみたいに前から後ろまで見学して回っていた。それはいいんだけど、何日か滞在して、帰ったとき、帰りの電車でも同じようにうろうろして、食堂車で喰ったらしいんだよね。でもって、金だってないわけじゃないのに、カレー喰って大喜びしてやがんの。1985年まで新幹線の乗ったことなくて、わくわくうろうろして、カレー喰われちゃ、もう気分はまざこんだろ、そりゃあ。そんなこと思いつつ、おめおめと、ビーフシチューとハムサラダを食ったわけだけど、馬路くだらねぇなあと思う。別に、清貧だとか、我慢だとか、つつましさだとか、くだらねぇ理屈言うつもりないけど、昭和30年代の下町のちゃぶ台の食卓はにぎやかで豊かだったと思う。
 岡山の街に来ると、若者がいなくなった居間が、連なっているように見える。山奥に行けば行くほどそう思う。山奥のお寺とかまわると、墓があって、○○二等兵○○で戦士とか、いささか大げさな墓がおったっていたりする。こんなところからも戦争に動員されたのかということを思うと同時に、家族の無念を感じる。野口ゆきおじゃないけど、戦後も大差ないのかな。本多勝一の『そしてわが祖国・日本』に、田中角栄を当選させた側の論理が書いてある。そういうところから、ものを見ないといけないみたいに思うのは、東京近郊の出身だからかもしれない。小谷敏氏と、地方の市民性について、ずいぶん議論したけど、結局のところ立ち位置の違いかなぁなどと思う。
 そんなことを考えながら、岡山の街に着き、いつものオリアンでメシ喰おうと思ったら貸切だった。あまり腹もへってなかったから、電話をしていたネットカフェへ。期待したとおり、東京などよりは広くて快適だ。カラオケボックスなんかもそうなんだよね。でかい。ひろい。きれい。曲多い。舞台標準装備。中にはマイクキープ店もあり。今日はまだ元気だけど、毎日これるかなぁ。ワープロもエクセルもあるし、プリントもできる。宿泊する人も多いのか、シャワーもついているし、トレーナーも貸している。まあしかし、ガビシャンとかアテクシが爆眠したら、おこられそうだけど。