月凪、あるいは水鳥の滑空−−ひとつの文化論の視点

 猛暑が続いている。東京に来た当初は、夏ならずとも西荻からあるくだけで不快感がものすごくあったんだけど、今は猛暑で吉祥寺から歩いても大丈夫。身体を鍛えているということと、あとやっぱ東京の街に慣れたということじゃないかな。地方都市の人は、チャリだとか原付だとか四輪だとかにのって、意外なくらい歩かない気がする。東京は、たとえば新宿の紀伊国屋に行くのでも、かなり歩かなくちゃいけない。ンなことを考えつつ、道すがらビデオ屋によると、有線のBGMに東京エスムジカの『月凪』が流れていた。5月頃、新星堂大プッシュでCDを買ったんだけど、どっちかというとザバダックだとか、Vita_Novaだとか、キルシェだとか、まーしまろだとかを買うような感覚で、え!馬路ってカンジですた。でもって、買ったばかりのFOMA君で着メロ検索したら、『月凪』が入っていやがる。最近いそがしくてCDTVとか、まともにみていなかったから、どのくらいはやったのか知らないけど、え〜、スゴイかもって、しばし感動。まあ、深夜にCFとか流れてはいたのは知っているモノの、ふつーやるかぁ〜なんて思っていたのは、馬鹿だったんだね。CDを買った5月に、掲示板に書いたこと。

 石垣+韓国+東京のコラボレーションってことだし、美しい透明感のあるメロティと、不安定なリズムの交錯ってスリリングだし、いいなと思いました。「ふわり ふわり たゆたいながら」という詩句を、衒いなく、しかも一度ならず使っているのは、あーこれって、めじゃーでびゅで、弄られちゃったのかなと思ったけど、そういうのはあまりに凡庸な底意地の悪さ気取りにすぎない気もする。もしかすると荒技なのかもしれない。文語調和文脈と漢語系華麗語句の交錯も、イメージが貧弱に思えたけど、もしかすると饒舌な言葉でメッセージを極小化して、「ふわりふわり」ってことかなって思いマスタ。聴きやすく、みんなに親しまれそうで、しかもインテリジェンス高そうってことで、スクリッティポリッティ最初に聴いたときみたいな、一言言いたい気持ちだけど、まあ正直それは夢やぶれたアテクシのねたみだと思う。

 何度も聞いてみると、「月凪」はすごいっす。歌詞に美文調唐文脈と和文が混交しているわけだけど、音とリズムにあわせて聴いていると、鮮明な像が結ばれる。水面を滑べるように飛ぶここちよさをジャイロスコープで撮ったみたいなカンジかなぁ。水面近くをゴキゲンな速度感でグングンと加速しながら飛んでゆく水鳥。その水鳥の眼がながめる月凪の海が見えマースなんて、昔よくテレビに出ていたインチキクサイ女占い師じゃあるまいしってことはともかくとして、「滑空する水鳥」のイメージの化学、才気の炸裂は、馬路スゴイよ。でもって、アルバムのほうの『月凪』もちょくごに買いマスタ。ま、こっちのほうが、ごつごつしたカンジで、なめらかさはないけど、とんがっていていいとアテクシは思います。やりたいことはよく見えるし。っつーか、ロックコンセプトはいってるのね、やっぱって、アルバム聴いて思った。となると、マキシの曲ってやっぱ、計算づくなんだろうな、恐ろしいことに。計算づくというのは、凡庸な批評以下的解析で、一筆書きにしてしまったかもしれないという怖さもある。滑空の曲のほうが、親しみやすいし、かつどう考えても(・∀・)イイ!!ンだろうなぁ。石垣とか、韓国とか、マーケットにらみ系みたいな要素をしてきするのは、ごるぁああちげーよと思うなぁ。ってことですっかり感心した次第。オマエの感激は、大安売りって言うじゃなーい!!切腹かなぁ。へへ。
 メロディラインと歌詞はとても美しい。でも、そこにいろんな要素が交錯する。リズムやビートや拍子やなんやかやも、にぎにぎしく混在する。そういった統合失調系といいますか、うまく言えないけど、いろんなものをならべてみて、しかもそれを纏めあげないで差異的な共存を認めるッテ意味でのコラボレーションだとすれば、とてもよくわかる。そーいったものは、いろんなところで散見します。古くはスクリッティポリッティはそうだろうし、おれんじぺことか、ざぜんボーイズだとかに、ポストモダンっちょい理屈をつけることはできるだろう。っつーか、ポストモダンっちょいというのは、浅田彰コンプレックスな世代の紋切りごたくで、今はフーコーだとか、ルーマンだとか、構築主義だとかを、自在に往還して、「ひとつの文化論の視点」が竣立しかかっているにも思われる。たとえば、園田浩之氏は、「何かに希望を向けるのではなく、みずからへ到来することが一個の希望であるかのように行為すること」という河本英夫氏のことばや、「ハイパーでペシミスティックなアクティヴィズム」というフーコーのことばを引いたあとで、次のように言っている。

 フーコーのゲームには、観察者なら見てしまう仕切がない。
 「差異を解放するためには、矛盾のない、弁証法のない、否定のない思考が必要である。相違のための肯定を語る思考が必要なのだ」。そうした思考の生命が継続されうるか否かは「真のフーコー」への収束や調和にではなく、そこから複数の異質な作動が創出されてゆくかどうかにかかわっている。それをそれぞれに実行していこうとするとき、その機構を実現しつつあると思われたのがオートポイエシスであった。
 経験科学の認識論的凝着を崩しつつたどりつかれるのは、ひとつの点のような立場ではなく、線のような動きである。引かれた線のようにではなく、線を引くことである。フーコーとはそうした行為そのものである。
 (「行為としてのフーコー馬場靖雄編『反理論のアクチュアリティー』ナカニシヤ出版)

 レビューのあとのいわば「予告編」という箇所であると思うけれども、野太い作品性が胚胎された文章だと思う。その作品性が早く結実することを祈りたい。2000年当時に「ひとつの文化論の視点」といったことを考えながら、構築主義だとか、ルーマンだとか、フーコーだとかとかかわる、ニューウェーブな議論−−大田省一氏、遠藤知巳氏、北田暁大氏、長谷正人氏、赤川学氏などなど−−をまとめ読みした。私はそれらを、「両義性」ということばで理解しようとした。バフーチンなどからの系列を、ケネス・バークに引きつけて理解しようという考えが下地にあって、そこに「フーコー的なモノ」をのせると、「両義的なもののあやうい不安定な均衡」ということばが浮かんできた。病気や、狂気や、異常や、不健康や、低級や、下位や、なにやかやをそうやってとらえればいいとなんとなくあてずっぽで思い、さしたる理論的なツメは行わず、この語句一本とあとは気合いだけで、粗雑な原稿をいくつか書いた。そのとき目にしたのが、園田氏の論文である。最初は無視しようとしたが、その存在はますます大きくなっている。最近、内部観測論の花野裕康氏と、園田氏の論文について言葉を交わす機会があり、思い出してまた読んでみて、そういうことを思った次第。その前にも、文化社会学掲示板で、花野氏と赤川氏が議論しているのも拝見した。私は、−−一応他に専門があるし、ひらきなおるわけじゃないけど、−−フーコーも、ルーマンも、いろいろな関連する上記諸氏の議論もほんとうのところちんぷんかんぷんなことばかりだけど、上の引用文だけはストンと落ちるものがある。単著でも編著でもいいから読まして欲しい。別に、えらそーにエールおくってんじゃなく、馬路レス。一生ついてゆくとまでは言わないけどね。だって私は一読者だし、書く側にはまわれない。言うまでもないけど。(花野さん、ごらんになっていても、ここは一応儀礼的無関心でスルーしてください。ヨロシコ)。
 で、東京エスムジカのコラボレーションだけど、押しつけがましくないと思うのは、そこには真実への求道や希求みたいなものは、さほど感じないからだ。「古典」というようなモノがある世界なら、たとえばキュービズムだとか、ミニマリズムみたいなもんが、応分の炸裂感をもつんだろうけど、ポピュラー文化みたいなせいぜいが「スタンダード」くらいしかないところで、そういった理屈の応用をすると、ぶざまな真実クレクレ君になってしまう。ッテ、しまってもいいじゃないっつーくらいのところで、落とし場所のない不安定において、イメージが喚起され、速度感を持って疾走するのは、ひつこいようだが馬路スゴイ。