精神の経済学

 木曜日は、学期中なら、朝一で社会学概論、二年ゼミ、四年ゼミ、オフィスアワーと息も詰まるような日程でありますが、今日から夏日程で、ゆったりとした気分で起床しました。もっとも、金曜だとか、月曜は変則で講義があります。月曜は休日だけど。時間的には、あまりかわんないんだけど、キツキツに詰まっているかどうかは、かなり大きいと思う。どこまでブログを書き続けられるか。2ちゃんに書くよりは、幾分かマシな面もあるし、ケロケロに燃え尽きるまで書いてみたいと思っている。しかし、2ちゃんとか、時間的ケイゾクがないということで、随分救われている面もあるのかなぁと思う。2ちゃんなどでは、日付をみないと、継起がわからない。どれが自分のレスだかも、わからなくなってしまう。そういう意味での自在性はある。そういう危ういリアリティーを、なかば脅迫的に、しかし軽やかなステップワークで制御する自己には、ゴフマンの言う転調操作keingという言葉が、しっくりあてはまる。しかし、被っているモノをやりすごすpassingという観点からするならば、ポップな綱渡りを礼賛するのはヘンじゃな〜い!!ってことになる。こうした悪循環の両極を寛容に受け入れつつ、論理を解きほぐすのに、ヴァレラなどに注目しながら、時間的経過のなかにある自己を対象化しようとする加藤一巳氏のミード論は非常に興味深い。と思っていて、摂食障害をやっている大学院生(=学部は河村望門下)と、そういう問題について考えてきたし、河村望氏と二年間にわたりいっしょにミードを読んできたなかで議論したこととも重なる面は多いものの、ブログはブログなりの「はまり」はあって、なんともにんともである。とまあ、かなり支離滅裂な昼休みであります。
 なら、少なくとも加藤氏たちのミード訳を、読めばいいのに、ぼんやりと手に取るのは福田こーそんの文芸論集だったりする。そこでみつけたのが、「精神の経済学」ということばである。思考を節約すること。習熟したゲームを確立し、それを後生大事に守ることに汲々とすること。研究でも、ゲージツでも、文学でも、あるいは政治でも、経済でも、安直なワンパターンを再構成することに終始し、どーんなもんだいエッヘンとふんぞり返る愚劣に、吐き気がするような思いをした人が、こーそんのこういう誠実に、萌え萌えになるんだと思う。そして、未来への理想というものがくり返してきた暴虐を知ると、保守主義が手招きする・・・などと大仰に言うほどのことじゃないけど、ミードの面白さは、なんでもサクサク切れるようなワンパターンのナイフを赦さないところにあるんじゃないかと思う。今/ここの一点の運動を、全宇宙的な連関のなかで捉えること。アメリカ思想の場合、そういう個人主義的な存在論に、そのトータルな「経済性」みたいなモノが付け加わるのかな。たしかに、一歩間違えると、昔ウエルズ、いま北田じゃないけど、アメリカ思想は帝国主義になるかもね。ってことはどーでもいいけど、ミード解釈はけっこう長い間、「精神の経済学」の支配下にあったと思う。その点で、とことん踏み込んでゆく加藤氏たちの試みは非常にスリリングで面白い。もちろん、望ちんは萌えさかっております。
 私は、「型」だとか「間」の日本文化が、ワンパターンの簡素な形式性のなかに、森羅万象を凝縮するようなところがあることに、むしろ関心がある。*1「型」については、源了圓だとか、あるいは三一新書に空手家の人だとかが書いていて、ゼミの卒論でお茶について書いたのがいたんだけど、社会学的には井上俊氏の武道論が一つの決定版になっている。でもって、その二年後に大衆芸能としての浪曲における「間」について、「間」の文化論を展開した学生がいる。井上氏の議論を下敷きにし、そこに浪曲師のことばをのせることで、型の文化論を間の文化論に読みかえた。これは面白かった。南博氏の「間の日本文化論」などというのも、引用していたなぁ。これに、奥野健男『間の構造』なんかを重ねる。奥野は、バシュラールの関係素の考え方を利用しつつ、太宰や安吾でそれを論じている。日本的自我論などというと月並みだが、左官の祖父がコテ一本で造り上げた世界や、ビートたけし@浅草芸人の芸だとかが創り出す、「逝ってよしな世界」を社会学的に表現するとどうなるんだろうか。近々出る『神奈川大学評論』にも書かせてもらったが、私は「若者における職人性の問題」を考えてみたい。熟さないままブログに書くべきことかわかんないけど、書いちゃいたい気分の今日この頃でございます。

*1:STAND ALONE COMPLEX 2nd Gig の能の話からパクってない?というお問い合わせが、ございましたが、少なくとも意識的には念頭においておりません。少なくとも私には、能やお茶を語るすべはありません。