都市を飼い慣らす?

 「情熱大陸」で紹介された浜田真理子さんのスタイルについて、クレバーってことばをつかったことについて、元教え子のアフォタレから、辛辣なことばをいただき、いろいろ考えますた。っていうか、スタイルということば自体が、横暴だって言われるかもしれないね。クレバーってことば自体は、ポピュラー音楽学会の例会で耳にしたことばで、札幌や福岡など、地域の行政や、FM放送局などが、中央でも渡り合えるだけの識見と、人脈をもったような人的資源を有していて、使い潰されないように、消耗されないように、そして地方都市にとてもゴキゲンな場ができるように、いろんなかけひきのなかでクレバーに立ち回っているみたいな話を聞き、それとの連想でものを言ったわけです。松田素二氏の『都市を飼い慣らす』を読み、松田氏が岩波の現代社会学講座に書いた論文なども併読し、そこに引用されていたスペルペルやド・セルトーの見解から、先進国の文化を巧みに「横領する文化」というような指摘がなされていることに、一種の驚きと感銘を受けて、それをずーっと引きずっていて、でもってかなり安易に、クレバーな横領といったことを振り回しすぎた気もしています。今春修士を卒業した院生がインドネシアのノンフォーマル教育をジャカルタやスラウェシにおける一年にわたる現地調査に基づいてまとめていて、そこで議論したときもアテクシは同じようなスタンスで議論をしていて、かつなんとなくかみ合わないところを感じていたのですが、その原因は同様の安直な議論のあてはめにあったのではないかと思っています。
 おー昔の左翼のセンセイみたいに、「クレバーな抵抗だねチミ」とか、チョーシこいてふんぞりかえっているわけではないことは、いうまでもないと思いますけど、歌い手にとっては、われわれがどういうかは、どーでもいい話なんでしょう。ただ、アテクシが浜田真理子さんという歌い手について、その立場に立って、語ることができるとか、それをめざすとかゆうのも、それはそれで傲慢な話であると思います。これは、社会調査論で、似田貝−中野論争と呼ばれているものと、重なると思います。つまり、(1)被調査者の立場に立って実践的帰結を得ることができるか、(2)あるいは調査される者とする者がふれあうなかでそれぞれが何をくみ取るかはそのひとそれぞれに違うと考えるべきか。この(1)と(2)の対立。松田氏は日本社会学会@一橋大学のシンポで、どちらかというと中野氏の立場に近いということをおっしゃっていたように記憶しています。一般論としては、ッテイウカ、調査論としてはそれぞれに正しい部分があって、にわかに判じがたいけど、ここでの議論っつーか、ある歌い手について、社会学者風情が生意気にも論じるってことについて言えば、圧倒的に後者ではないのかなぁ・・・。えばる必要もないだろうけど、卑下する必要もないんじゃないか。
 でもまあ、それにしても、クレバーである必要もないよね。「いったいクレバーに何するんだい?」ッテ、ワールドダウンタウンのジルに皮肉られそうなところですよね。なんか、ここのところ、このジルのツッコミの間や、オーバーアクションはもはや身体化され、毎週みるたびに規律訓練されているカンジで、でもってアホ芸人とかゆうナタリアのはやし声も幻聴っぽく聞こえてくるようでもあり、もはやこのノリはいわゆる一つのハビトゥスですな。もちろん、狙い澄ましたようにそんなつっこみされたら、もう完璧、20ウゼーの、満ウゼーですな。まあだけど考えてみると、「ユーヤさんクレバー」とかゆったら、ジョー山中とかホタテのおっちゃんとか出てきて、凹られるの必定だろうしねぇ。要するに問題は、クレバーだからどうのこうの、地方だからどうのこうのっていうことじゃないことはたしか。「で、なんだい?」とジルがきいたとして、ゴキゲンとか、楽しさとかゆったとたんに、ウソにそまるし、ちげーちげーと柄の悪い否定神学してもしゃーないし、まあうまく言えないのは、芸がないってことで、とりあえず懺悔の値打ちもない・・・かも。