参院選あぶく考

 大学に行く道すがら、選挙ポスターの前に法政一高の学生が十数人集まってわいわいやっている。選挙権もねぇくせにと思ったら、みんな携帯で写真をとっている。なにかと思ったら、まっきっきに赤い文字の又吉イエスですた。アテクシとして面白かったのは、ポスターよりも高校生たちが、嬉々として、「こいつウゼー」「ウゼー」「ウゼー」「ウゼー」「ウゼー」と異口同音に何度もゆい、セミが鳴いているようだったことです。若者には「こいつ」は「ウゼー」んだなと学習しますた。っつーか、「ウゼー」ってこういうふうにも使うのね。昭和天皇のあっそうとか、絵文字の(>_<)だとか、昔のかわいいとか、そんなのといっしょなんかねぇ。おもしれーだとか、ぶっとぶだとか、すんげぇーだとか、ッテ、ジローラモかっつーのはともかく、そういう「!!!」ではなく、しかもいかにも体育会系的なガタイのでっかいあんちゃんたちがマウントツクバのフロッグコーラス♪のように、「ウゼー」を合唱していたのは笑いマスタ。私は、前回の総選挙の時に共産党がつくった「若者に仕事を」というロゴの入りで、若い女性が不安でおびえているような表情のポスターにーーさわやか笑顔路線とはがらっと変わっているような気がしてーーかなり感心したのですが、あれも「うぜー」「ウゼー」「うぜー」とゆわれているとしたら、かなり感覚のズレがあるわけで、なんとも鬱です。
 参議院選挙と言えば泡沫候補であり、昔は政見放送を見るのが楽しみでした。反共挺身隊の高田がんさんなどは、「全国の選挙に出ること四十有余回、そのことごとくに落選して参りました。この高田がん今度の選挙に負けたあかつきには、頭を剃って出家します」などと、思い詰めた眼で語り、しかし落選したすぐあとにどっかの知事選にでたりしていて、なんともファンキーな人ですた。私は、伝説の赤尾敏の辻説法を生で聴けた世代で、「本当はアメリカなんか大嫌いなんだけどね、でもしょうがねぇんだよ」とかゆうような名調子を聴き、またそこで絶妙にヤジを入れる椰子がいたりして、面白かったなぁ。歌手の内藤やすこも、よくヤジ飛ばしていたらしいけど。政見放送で伝説になっているのは、やはり雑民党の東郷健さんでしょうか。応援には、元陸軍戦車隊長という銀座のあおえのママなんかも来てたんじゃなかったっけ。新橋で警視総監だかをぶん殴ったという伝説のオカマ、鉄拳のオキヨさんなどとはまた別の意味でカリスマな人だった。東郷は、愛嬌があるというよりは右翼青年チックというか、ファナティックなところがあり、それが雑民としてアジるみたいな感じで、NHKに出て、NHKはホモのスクツ、誰々は私と寝たみたく実名暴露しちゃって、でもって最後は腰をクネクネさせて「(票を?)入れてぇ〜入れてぇ〜」と絶叫。放送するとかしないとか、大もめになった記憶がある。まあそれに比べれば、イエスとか、はしば秀吉とか、どーなんだろうね。イマイチ夢中にはなれない。相撲取りだった荒瀬さんなんかは、もみあげと、グッグッとスタイリッシュに腰をグラインドさせる独特のがぶりよりで、萌え系ファン多数だったし、暴力団対策法という悪法を改正し、任侠道の復活により、今の日本を立て直すというとんでもない公約かかげていたこともあり、政見放送は見逃すまいとしていたけど、みてみたら、疲れて切っているのか、しょぼしょぼでもう萎え萎えだったですねぇ。
 まあ選挙というと、こんな話しかできないのは、たぶん私が「市民的なもの」みたいなのが、ピタッと来ない部分があるということが大きいのだと思います。『子ども論を読む』という本に書かせていただいたときに、編者の小谷敏氏と、原稿を直すか直さないかで、かなり激しいやりとりがあって、随分ご迷惑かけちゃったんだけど、それはやっぱ「市民」といったものについての私の方のいかんともしがたい構えに起因するのかなぁと思います。私は、宮澤きーちや、鳩ぽっぽよりは、角ちゃんや、はまこーや、あるいは極言すれば、ムネオなんかのほうに、より近しいものを感じるようなところがあるんですねぇ。小学校時代の学級会とか、生徒会とか、なんかなじめなかった。あほガキだったし。中学、高校はミッションスクールで紳士たれなどと定言命法すりこまれて、なんか植民地教育されているみたいに感じた。あるいは大学に入ってからもゼミでの議論だとか、さらには社会学会での議論なんかもそうだし。これは、正直に言って、子どもの頃からよい子に育てられ、楽譜が読めて、ピアノが弾けたり、バイオリンが弾けたり、いろんな小説を読んだり、美術をみたりみたいな教養面のことから、ちゃんと人前で食事ができるとか、整理整頓ができるとか、トイレに入ったあとトイペの先を△に折りたたむとか、そういうハビトゥスというか、規律訓練ができていないことへの、どうしようもない落差に対するコンプレックスのなせる技なんだと思う。もちろんだからといって、「土建的なもの」に帰依するつもりはさらさらない。利権に慎重でありたいと思う。いうまでもないと思うが、「庶民」などというスローガンをかかげたとたんに、「庶民」はうすらさむいものになることはわかっているし、そんなことをいうつもりはない。「うぜー」「うぜー」「うぜー」に立脚した民主主義はありうるのだろうか?それは、加藤典洋が言う自己チューともまた違うんだろうし。もちろん、平田清明の「個体的所有範疇」などは、私的所有論の真摯な読替として、心底よくわかるけど。
 とまあ、そんなことを考えながら、ゼミに。私語だらけで、クソ五月蝿いけれども、こっちの社会学的若者論に食いついてきて意見が言えるところはいつもながらにすごいと思う。それが終わって、研究室で仕事をしようと思ったら、またまたHUBの不調からか、研究棟からネットにつながらない。ジャストシステムのインターネットディスクを利用している私には、一切の文章がひらけないということで、帰宅した。こういうときやファイル検索をしたいときは、パソコンにウェッブ上のディスクのバックアップを保存して使えるニューバージョンのほうが便利だなぁと思うけど、めんどうだ。これから暑くなるだろうし、自己防衛にFD持って歩くかなぁ。