図書館−−殊勝な月曜日

 まだ疲れがとれないのか、昼前に起床、っていうか、四時過ぎに寝たんだからあたりめぇだわなぁ・・・、しかしなんでこんな風な生活になってしまっているのか。昔は朝型で、暗いうちから起き出して、ノートなどを手に野毛山公園に散歩に行ったっけ。 そんなことを考えつつ大学へ、文化社会学の講義をして、その後大学院生と来週の修士論文中間報告会に向けたディスカッション。院生はいろいろと苦しんでいたが、聞き取り調査を始め、自信がついたのか、研究はイイ方向に向かっているように見える。その後、外出。でてゆくところで大学院生と会う。近くのコンビニで食料を買ってきたようだ。これから院生研究室にこもって、中間報告に備えるという。社会学科の大学院は、FDの一環として、公開方式の中間報告会を何度か行う。プログラムをみるとミニ学会のように見える。
 外出し、とりあえず蕎麦を食べる。最近はラヲタを卒業しつつある。しかし、かえって体重が増えているので不思議だ。その後、パチンコをして気分転換し、大学に帰った。九時の図書館閉館で追い出された学生たちが、充実した表情で次々に出てくるのとすれちがった。パチンコなどしていた自分を恥じた。
 図書館は、私にとり特別の場所だ。勉強部屋を実家にもたなかったので、集中できるのは図書館しかなかった。それを知ったのは、高校に入ってからあとである。それ以前は、いろいろ工夫して勉強した。ビートたけしみたいに、街灯の光で勉強するなんてことはなかったけど、トイレは随分活用した。実家のトイレには、実は机がついている。そこでしゃがんで勉強する。別に排便するわけではないのに、かならずパンツまで脱いで、しゃがんで勉強した。理由はなぜだかわからないけど。いまだにトイレでナイスアイディアを思いつくことは多い。股、トイレにはいるときは、必ず本をもってはいる癖も抜けない。集中できる場所がないことを、当時は随分うらみに思ったけれども、勤務したあと、公務や学生の訪問などで勉強時間が細切れになっても、キレることなくやってこられたのは、個室のない修練をしたからであるようにも思った。
 夏休みには、三〇分以上もならんで図書館の自習室に入り、閉館までずっと勉強していた。これは、大学に入ってからも、大学院に入ってからも、変わらなかった。教養部の時は四人部屋、専門になり二人部屋という寮生活、大学院に進学し、ようやく1人部屋をもち、院生研究室も使えるようになったが、これはというときは、横浜市立図書館を利用した。修士論文の最後には、「横浜市立図書館にて脱稿」と走り書きしてある。気障だと、恩師の佐藤毅氏や、審査員の油井大三郎氏に怒られた。感傷癖はたしかに見苦しい。反省している。
 この他にも、大学図書館もよく利用した。一生のうちで一番うれしかったことは、大学院に入って、大学図書館の書庫に入れるようになったことかもしれない。母校の図書館は閉架式で、院生以上でないと入庫できなかった。はじめて入庫したとき、かびくさいニオイがして、胸がキュンとした。べつにだから、いま研究室とかが汚いわけじゃないけど。しかし、学生に、「研究室で話をするとのどが痛くなる」と言われたのにはまいったなぁ。っていうのはともかく、書庫ですが、うろうろしているだけで、たいした勉強をしたわけでもない。まだ矢澤修次郎先生が赴任される前で、社会学会を中心にして研究をされている先生は皆無だったし、本もあまりなかった。経済などの異様な充実ぶりと対比して情けなくなった。
 で、毎日逝ったのが、修士論文の書架である。毎日そこに行って、いろいろな修論をみた。最近新原道信氏からも同じようなことをきいた。みんなそういう風にして勉強したんだなぁと思った。近い主題のものがあると、何度も読みかえした。私が毎日必ず手にとったのは、草津攻先生の修士論文である。アイデンティティ論について書かれた論文だが、異様なまでの充実ぶりで、詳細な脚注が刺激的だった。私はまったく同じ体裁の原稿用紙を手に入れ、脚注方式で修論を書くことを決意し、さがしたところ、社会地理学研究室が自主製作したものが同じようなもので、竹内啓一先生にお願いし、購入させていただいた。M2の時には、院生自主企画のゼミで草津先生をお呼びし、一年間ご指導いただくことになったことも忘れられない。大学のカリキュラムでは、ゼミは半期だったのだが、もう半年は手弁当で来てくださった。本務校である津田の学生、院生も多数参加し、毎回飲みに行った。と書くと、合コン目当てのゼミみたいに思う人も多いと思うが、実は飲みはどちらかというと照れ隠しに近く、みんな参加者はものすごく熱心だった。ミルズを教わるつもりだったが、ゴフマンを中心とした相互行為論の骨法のようなものを教わった気がする。哲学くずれの晦渋な言葉遣いを徹底して批判された記憶がある。その批判を意識することで、前に進めた気がする。