朝食バイキング

 一限目から講義の木曜日で、かなりはやく目覚め、先週は、週に一度の贅沢である朝食バイキングをしなかったので、東急インに向かった。とろろ、納豆、スクランブルエッグ、ベーコン、みそ汁などの定番に加え、今日はキーマカレーがあった。しかしさすがに喰いすぎだと思ったのでやめる。食後のコーヒーも飲み放題。しかもけっこうすいていて、静か。書きかけの原稿や、ノートなどをみながら、くつろぎのひととき。その後、余裕綽々で一限の講義へ。若い頃は朝起きるのがつらかったが、最近は目覚めがよ杉。
 一限目は社会学概論。『社会学のエッセンス』の「規範と制度」の章。テキストの忠実な要約以外に思考が運動したのは二点。第一は、とりきめ、きまりをめぐるいわゆる文化の恣意性という問題の例解で、テキストにあがっているリクルートの話をしているうちに、話はいつしか自分のプレイスメント体験へ。学部の時、就職まわりしたんだけど、その際長い髪でフルフェイスヒゲ、今で言えば麻原ショーコーみたいなカンジで、マルクスおじさんとか、二等身とかゆわれていて、けっこうキャンパスで目立っていたのが、さすがにまじーとかゆって、スーツもつくり、それから髪も切り、ヒゲも剃ったんだよね。ゆーみんのいちご白書みたく「もう若くない」なんて言い訳はしなかったけどさ。このスーツが高島屋でつくったんだけど、すぐに股ズレして、3日で穴が空いて、ただで作り直してもらったんだよ。デヴは股ズレすんのよ。だからワシはGパンばっかなの。今もスーツは一着だけ。オーダーだけどな。わら。あ、それでもけっこう根がちゃらいもんで、ワイシャツはピンクと黄色だったなぁ。・・・なんて盛り上がってきたから、もー止まらない。テキストにクリスマスイブに恋人とすごすのがきまりになっているみたいな話があって、著者はイブに応分のルサンチマンがあるんでしょうかと、はじめちゃって、バブル期のころなんかイブ一泊パックがお約束ってなもんで、予約できない椰子でまくり、それで別れたなんて悲惨な話もあったよなぁみたいな話とか、パークハイアットなんか学生の分際で逝っている椰子いねぇだろうなぁとか、そう言えば、バレンタインもそうだよね、だってあんなもの昔はきまりというほどじゃなかったし、もらえなくても惨めでもなかったよ。そーいや、岡山の地方局の番組に一回だけでたことがあって、それは義理チョコのコメントで、オヤジにチョコって体に悪いし、あんなものくうと心筋梗塞脳卒中になるんだぜ。っつーことは、んなものやるのは、ヒ素もるのといっしょで、殺意があるんじゃねぇの?緩慢なる殺人とも言える愚考は即刻辞めるべし。もしやるなら、義理とか人情だとかより、−−なぁ〜にが人情チョコだよごるぁああ、哀れむんじゃねぇよなあったく−−怨とか殺とか時を入れた方がよくない?とかぶちまけて、けっこうおもしろがったけど、やっぱ同僚の目は冷たく、以来出演は一切しねぇんだよな。今の大学だったら、かなりやばいよ。みたく言いたい放題してしまいました。今日は教員評価の日なので、やばかったかもしれません。まー話ちまったもんはしょーがねぇよな。うちの学生さんは、「あの先生二回も休講して補講しない」とかオソロシイこと言いますからね。当たり前か・・・。休講するなんていうと、わーいと(出てねえ椰子ほど)大喜びするのは、昔のことでしょうね。
 それともう一つ走ったのが、終わり間際の、「われわれはなぜ人を殺さないか」というくだり。これはまあ、規範をめぐる基本的な説明をしただけですけど、とりきめの便宜性といったものを説明しておくと、後々のシステムの複雑性だといった説明につなげるにも便利ということがあり、じっくり話しました。ただ、ちょっと調子に乗りすぎて、社会契約説っぽすぎる説明になってしまったことは、うまくないかなぁと反省しています。
 二限目は二年ゼミ。「かまやつ女」でまたまたブレイクの三浦展より頼まれたアンケートをする。「よくデートする場所は?」という設問があり、昨日の三年ゼミでは、「デートしねぇ」「相手がいねぇよ、ごるぁああ」などと吠えまくる椰子が何人かいましたが、今日はいませんでした。三年は日サロギャル系からJJクラス多数で、逆に二年は勉強家タイプが多いんだけど、つっこんだことは絶対きかない、っつーか倫理規定に引っかかるのできかないんだけど、わかんないもんだよなぁ・・・っていうのはいささかカマトトで、ありがちな傾向だっていうことはわかっているぜ、ワシだって。っつーか、三年はイチビリってんじゃねぇYO!!ってかんじっすね。
 ゼミは、このコミュニケーションの自己準拠の章まですすんでいて、正村氏のルーマンに関する解説をもとに議論。この章は、学生には難しいだろうなぁと思っていたのですが、意外というか、学生たちはかなりしっかりした報告と議論をしていて、正直びっくりしました。テキストは、整理はかなり整然としているものの、少ないスペースにかなりの情報量で、うちの学生が理解するには論述に少しことばが足りないかなぁと思っていたんですが、これを豊富な例を自分たちで案出して、肉付けし、見事な報告をされていました。私はかなり感心したし、無理と諦めてはいけないと禿げしく反省しました。こちらも例解はけっこう得意なので、いろいろな例を出しながら応酬し、珍しく充実した時間となったという手応えがありました。しかし、例解でかみ砕くことというのは、啓蒙や教育的努力にすぎないのかなぁと、ふと思いました。そこから、学問的な方法が竣立することはないのだろうか?わかりやすく整理することは、厳密さや、微細なニュアンスを犠牲にすることになる。「要するにこういうことね」と馬鹿面さげて言われることを絶対拒否するアドルノの誠実はよくわかる。どちらかというと、私はそっち側でものを考えていた。しかし、最近そういう根気がなくなったこともあるんだろうけど、論理や概念を前に萎縮してしまう自分に気づくことがある。わかりやすさというような、説教クサイ話をしたいわけではなく、そういう愚にもつかない得意げな説教も含めた存在や居場所の横暴といったものは、どうしたらいいのかという緊張感として、持続してゆくしかないということはわかっているのですが・・・。ただ、他方で、修練の欠落を言い訳していいのかという気持ちもあります。教える立場であれば、そちら側にたち、修練を強要し、動員法、役に立ち方をどう考えるかというような問いを発し続ける偽悪?のほうが、うさんくさくないなぁとも思うわけで・・・。
 午後は、四年ゼミとオフィスアワー。この後はいつもといっしょでしょう。うだうだして、プール。そしてネット。