教授会

 こぬか雨を英語でどりずるとゆうことは、大学入試の過去問を解いているときにみつけたんだっけ。つむじ風=トウィスターなどといっしょに覚えた記憶がある。オーヤンフィフィが「こぬか雨降る御堂筋」(雨の御堂筋)と歌っていた頃の話です。ったって、受講者諸君はわからんよねぇ・・・。午後から晴れちゃったけど、今日の午前中は、そんな水曜日で、そんな日は自家焙煎のこしーをミルにかけながら、こじゃれたズージャーの一曲も思いつくのが、ま、呼吸というものだろうけど、アテクシはと言えば、あいもかわらずダイエットペプシをがぶ飲みし、アニソンを聞いております(ほんとは、ジョニーヘイトジャズの「シャトルドリーム」を聞いてますと書こうと思ったけど、それはつくりがすぎるしね)。
 二時限目は、大学院のセブゼミでした。摂食障害で卒論を書く院生の理論構成を「叩く会」。加藤まどか氏の摂食障害研究における規範拘束論に対し、勇ましくも批判的レビューを試み、「自己発見」という能動的概念を対置しようとする立論を検討しました。主としてはゴフマンの諸説に関する諸解釈を検討していきました。つまりは、無意識を無視し、個人の聖性を偏重するとの、山田富秋、好井裕之、ギデンズなどの諸説を一方で検討するとともに、他方で坂本かづえ氏のスティグマ論(自己に対する自己評価と他者評価のギャップに着目する能動的解釈)を検討し、さらにはベイトソンと自己言及問題、それから加藤一巳氏のヴァレラにひっかけたミード解釈などをつきあわせ、自己評価と他者評価、随意と不随意、keyingとpassing、空間的多重性と時間的経過性、意識と無意識などの整理軸を取り出しました。でもって、大学院生は、労働社会学において、passing 的な概念をキャリアに読みかえるという試みがあること、そういう時間経過のなかでpassing や自己を捉えるべきこと、これと加藤のミード解釈を重ねることはできること、でもって「生きにくさ」に注目する議論に「生きやすさ」に注目する議論を対置させることで、困難の両義性と希望の両義性の双方が明らかになることなどが確認されました。有意義なひとときだったと思っています。ゼミには、某大学所属の教員が参加いただいていて、非常に刺激的であり、また私自身も原稿を読んでもらい、批判してもらったりして、充実したひとときになっています。
 午後からは教授会ですた。前任校では教官会議と言いましたが、うちは教授会と言います。もちろん職名は関わりないです。前は、入り口付近に座り、出席だけとって、研究室で休んだりしていたこともありますが、うちの大学はそれは無理です。座席指定だし、奥になっている。あまりもめることはないので、比較的早く終わります。前任校で文学部に移ってからは、一時に始まって夜の十時なんてこともありましたから、非常にその辺は楽になりました。ただまあ、大学運営に関する情熱が長い会議を生んでいたとも言え、意見の激しい対立なども含め、私はあの頃はなつかしく思っています。岡山の教養部には、名物先生とも言えるようなキャラな人がいて、楽しませて?くれましたし、また教師になりタテの新米でも、若い情熱で、ボス教授に噛みついたりしていましたが、今はそれはありません。ほとんどの教員が40歳以上の円熟期だからかもしれません。まあただ、するべき議論はしているわけで、スマートにやっているだけとも言えます。いずれにしても、会議は大切な時間だとは思いますが、正直つらいひとときです。