文化社会学前日−−カルスタ2

 日曜も、前は大澤親分の喝!!くらいまでには起きていましたが、このごろはサンデープロジェクト始まるちょっと前くらいじゃないと起きません。プロジェクトと将棋といいともと波乱万丈をザッピングして、ふんでもって囲碁を見て、パチンコ。東京だと、それから研究室に行って、気が向けば夕方からプール、気が向かないとそのまま11時の閉門までうだうだし、メシ食って、ビデオ見て、ネットして、寝る。横浜だと、研究室ではなく、自宅でうだうだ。ネットは、ジャパネットでおやぢに買ってやったダイナブックからッツーことになるわけで、大差なし。んなこと言ったら、平日も昼前に学食で、パチンコはやらなくて、10時まで研究室で、あとはスポーツクラブに変わるくらいなんだけどね。
 明日は文化社会学の授業。例によって、プリントはずっと前からできていて、印刷も完了。昔から、待ち合わせで遅刻したり、原稿が締め切りに遅れたりってことは、一度もなく、そういう律儀さみたいなモンは、文化ッつーギョーカイにおいては、恥みたいなモンで、もっとリスキーなヒトになりたいなぁって・・・。明日は、カルスタの残りの解説なんだけど、ミルズと60年代ラディカルのスタイルを基本視点としてきたアテクシとしては、ホールとヘブディッジとギルロイの三人をとりあげるのが、「ッポイ」かなぁ、などと思っていて、しかしまあそれは先週関東社会学会でモスラちんほかの報告を聞いたからかなぁ、だったら部会のことをとりあげて説明するのが公平かなぁなどと、あいまいに思っておったのです。でもまあ、パンクとストリートとか、説明しなきゃなどと思っていたら、佐藤守弘氏のサイトに出会いました。めっちゃマニアックですごいもんだなぁと、感心することしきりでありました。ツートーンの説明のところで、ポール・ギルロイ『ユニオン・ジャックには黒が無い』(1987年)が翻訳されていて、やっぱこういうものもきちっと引用しながら、なんか書かないとだめなのかなぁ、まあしかし、そんなもんは毛利さんだとか渋谷さんだとかが、とっくのむかしにやっちゃっていて、いまさらわしがやってもショーもねぇーなぁなどと思ってしまい、どうにも萎え萎えです。しかし、まあ授業で説明するのはしないとね。

ボブ・マーリーは、レゲエとリズム&ブルーズが有機的ではあるものの、時期としては遅すぎた出会いの場に差し掛かろうとした丁度その頃に没した。彼の作品は、新たなポップ・マーケットであるラテン・アメリカやアフリカで大いなる支持を集めていた。彼はアフリカのジンバブエの独立記念祭でコンサートを開き、それは新世界[アメリカやカリブ]における黒人たちがアフリカを取り戻したことを象徴し、またアフリカが新世界におけるディアスポラ[故郷喪失者]を取り戻したことを象徴していた。マーリーの音楽やプレゼンテーションの仕方は曖昧なものであったものの、彼は国際的なレゲエの大きな市場の中心として、ヒーロー役を演じることとなったのである。1977年から78年に掛けて、彼のアルバム《エクソダス》は、イギリスのポップ・チャートに56週連続でランク・インしていた。1977年には、「パンキー・レゲエ・パーティ」のリリースにより、新しい白人のリスナーに認知された。しかしそれは、二つの対立する「党派」――すなわちラスタとパンク――の合流を意味するというよりは、ポップ音楽のしたたかさや多様で矛盾を孕んだ要素を抱き込む包容力を意味していたのである。さて、当時、イギリスの若者たちは〔それまで彼らが拠り所としていた〕アメリカ的なイメージや意味作用から脱しようとしていた。まさにそのような時、若者たちが重要なサブカルチャー的資源〔アメリカに変わる新たな準拠枠〕となっていったのが、カリブ系住民であった(ディック・ヘブディッジ)。マーリーは、レゲエを単に新奇なものとしてではなく、チャート内に確固たる地位を築き、彼自身がスターとなることで、ポップ・ミュージックの中にある新しい空間を切り開いた。この時から彼の死までの間、その空間は主に〈2トーン〉という流行によって占められた。このムーヴメントにおいて、かつてのカリブの音楽形態、特にスカが採り入れられ、さらには特にイギリス的なスタイルや関心に合うように変形された。スカとは、それが明らかに妥協の産物であったマーリーの音楽の背後にあるものを探し出そうとした真剣なレゲエ・ファンによって選択されたものであったのである。しかしながら、〔レゲエとイギリス的なものの〕融合はいくつかの対照的な道筋を辿った。マッドネスやバッド・マナーズのようなロンドンのバンドによる断定的な〔力強い?〕〈白人の〉レゲエは、若き人種差別主義者たちの支持を得た――彼らの愛国的移民排斥主義〔nativism〕は、スキンヘッド・スタイルの復興とともに再生したものであった。それと特に対照的なのは、イングランド中部からやって来た異人種混成バンドによる作品であった。マッドネスが、単にスカをハイジャックし、白人のものとして宣言したのに対し、ザ・ビートやザ・スペシャルズやその追随者たちは、その作品のなかで、〈人種〉間の矛盾するポリティックスを顕わにしようと努めた。その最も優れた成果は、人種差別の持つ破壊的な力を知らしめるところにあり、同時に聴衆とともに差別を克服しようとした点―― 黒人と白人が協力して音楽を制作することによって現実のものとなった可能性――にあった。
 マーリーのポップへの遠征が2トーンの種を撒くことにあったとするなら、それに続くこの時期は(欠落してますた)
 彼が栄光の頂点に立ったことの残り火は、若者のサブカルチャーにおけるけばけばしい過激派たち――イギリス的なるものに対して反対、批判をするラスタファリによる主題や関心事を、パンクは再加工していた――によって支持されたものではなく、むしろ主流の若者文化によって支持されたものであった。ここにおいて、ドレッドロックスを振り乱すマーリーのポスター――アイランド・レーベルにおける彼の融和的なレコードに添えられていた――は、無数のイギリスの若者の寝室にイコン〔聖像〕のように祀られた。そのような若者たちは、マーリーの言う平等主義、エティオピア主義〔ブラック・シオニズム〕、反帝国主義、法律や商業主義的な音楽に対する批判に、もはや帝国ではなくなったイギリスにおいて彼ら自身が生きていく意味を見出したのである。2トーンのバンドはこの状況を認識した上で、マーリーの訴えのなかから、80年代のはじまりを迎える都市部の若いイギリス人の経験に則したものだけを抽出した。マーリーの企図の内にある論理から、カリブに根ざしたポップ音楽とポピュリズム的な政治性を融合させるという結論を導き出したのである。

 うううう、やっぱ濃いっすねぇ。一番頭にグサッときたのは、次の文章でした。「当時、イギリスの若者たちは〔それまで彼らが拠り所としていた〕アメリカ的なイメージや意味作用から脱しようとしていた。まさにそのような時、若者たちが重要なサブカルチャー的資源〔アメリカに変わる新たな準拠枠〕となっていったのが、カリブ系住民であった(ディック・ヘブディッジ)」。てきとーに読み流して、血肉化したなら、別に精査引用には及ばないと思っていて、いっそ宮台ひいちまったほうがサブカルだよねって思ったのは、やっぱひとりよがりかなぁと反省しますた。じっくり読み込んでみたい思いはじめました。そうなってくると、光源はやっぱミルズなんだよねぇ。おりしも、ベルファストの大学にいるジョン・ブリューアーが、『ミルズと暴力の終焉』という本を買ったところで(今頃買うなって識者から怒られたんだけど)、IRAだとか、南アフリカの暴力などとのかかわりでミルズを論じていて、しかもミルズが聖人君主ではなく、どーしようもないマッチョな野郎で、女性を「女の子」とか「ねぇちゃん」とかゆったり、両親を死ぬまで「パパん、ままん」と呼んでいたとか、そういった最新の伝記研究にもしっかり目を通しながら、けっして美化することなく論じているわけで、3年前とこの2月に紀要の『経済と社会』で若干理論的な論文としてまとめたものを、もう少し別の角度からまとめてみようかと思い始めますた。