関東社会学会

 関東社会学会大会に行ってまいりました。同僚のO先生から、『しまがっこ溶けた』をお借りし、詩人の桜井哲夫氏とコリアン女性の交流を読んで、アテクシのようなものには、どっちかとゆーと、雄々しき姿っつーよりも、近くの焼き肉屋で秘密会議しちゃったりして、へべれけにヨッバラッチャウ哲ちゃんや、かなりのぢぃさまでありながら演歌が嫌いで車のなかでジュディマリの「クジラ12号」をガンガンにかけて、ご機嫌ダネ!ってノリノリの哲ちゃんが、ハンセン氏病施設のなかでの朝鮮人差別を見つめていたことが、頭にグサッときていて、ほんでもって、がらにもなく殊勝な気持ちで、「マイナリティとアイデンティティ」という部会にでますた。そこでハンセン氏病施設の朝鮮人患者について調査された方の報告があったからです。「マイナリティのマイナリティ」ってことのアイデンティティの政治が、ニートにまとめられていました。ブラジル国籍だかのかたが、「調査で、アイデンティティってことばを使ったのですか」みたいな質問し、かつそれがディアスポスコロ系の思想っぽくなく発言されてたのが、めっさ印象的ですた。
 二日目は午後から、ポストコロニアルのテーマ部会。ゼミなんかでも萌え系がいるあのこーいち岩淵が降臨ってことと、池袋ほかのコリアンタウン調査者、上野下町研究2ちゃん系、移動民と民衆歌謡とストリート、そして小笠原統合イクナイ系と、ナイスなラインナップを、よしみ〜&サキケンが仕切るっつーことで、非常におもしれかったっすね。こーいちが、「石原ごるぁああ」みたいな発言したあたりから、場がセットされたカンジ。まあ、小笠原=リゾート開発、ストリート=大道芸ここでやんな、上野=取り締まりと、まあ反石原のオンパレードってかんじがしねぇこともない。氏んだ網野センセも思わずホコホコな複合なワールド全開で、ワクワクしますた。ストリートが、モスラちっくなパフォーマンスで、「石狩挽歌」で話を始めたときは、思わず口ずさむオサーンが多数いたカンジで、こいつぜってぇー新宿花園神社付近とかで飲んでそうだな、って確信したのであります。私的には、モスラ君が結論部で

そうした「場」(産業社会進展のままに流動する男や女を蝟集せしめた、たとえば大規模な建築現場だとか炭坑、港湾、紡績工場、あるいはニシン漁場など 報告者注記)こそ、理想化された農村などよりはるかに緊密かつダイナミックに都市と連関した「地方」だったのではないか。(朝倉喬司『流行歌の誕生』青弓社

「ローカル」なものとは、ほんとうは特定の内在的な領域なのではなく、越境的資本主義のなかで、それを通して構築されるアイデンティティ群のこと」(カプラン『移動の時代−旅からディアスポラへ』未来社 282頁)

ちうような文章を引用していたのが印象的でスタ。非常に共感できる結論です。ただ、田舎に定住している人の調査をやった者としては、定住しているからといって「定住者」であるとは限らないと言うか、移動や越境は「内なるもの」(ダグラス・ラミス)であるというような面もあるというふうにしておかないと、移動する定住者っつーことになっちまう、ってぇことはゆっておく必要があるかなぁとも思いマスタ。まあただ、田舎のボヘミアンやネットのボヘミアンなんかも、「仕切る」の好きな椰子がいて、「せぇよ!定住者」と怒鳴りたくなることもありますな。バンドの世界なんかも、コネ社会で、バリバリの体育会系っぽいところもあるし。居場所っていうのはそれ自体暴虐であるっつーこともあんのかなーって、思いますね。
 「もっとアバンギャルドな部会運営したいと思っていましたが、気がついてみるとふつーの部会だった」などとおっしゃっていましたが、もう広島弁以外ありえねーっちうような人が、「暴走族の調査しとるんぢゃけど、抵抗なんてそこに読めない。みんないーかげんだし、最近は走れンけー集会だけやっとる」みたいな発言していたのは、かなりアバンギャルドで意味があったと思います。こういう発言に、「君には抵抗が見えないのか!!」などと恫喝するような大家がいなくなったことは、学問の進歩かもしれないなと私は思います。部会全体で、アイデンティティの流動というのが捉えられ、最後によしみ〜が「別にポスコロじゃなくってもいーんすけどね、までも、社会学的には意味がある鴨。ところでかるちゅらるたいふーん@沖縄ヨロシコ」みたいにオチつけて終わったのは、なかなか萌えですた。