烏村教授のご退任にあたって

烏村教授は、1993年4月に東京女子大に赴任され、7年間勤務された。そして、学部の社会学概論、社会学史、社会意識論、日本文化論、大学院の知識社会学などの講義・演習を担当された。日本の社会と文化、社会学史など、多方面にわたるご研究は、日本社会学会でも定評がある。本学在任中も、烏村教授は、デューイ=ミードの翻訳選集、日本文化論関連ほか多数の著作を発表された。また、ケガン・ポール社から著作を刊行されたのをはじめ、国際的にも研究成果を問われた。さらにオックスフォード大学出版局からも著作を刊行予定である。なお、教授の詳しい経歴と研究成果に関しては、『経済と社会』第28号を参照されたい。

筆者が生まれた年に、烏村教授は、すでに大学の先生であった。また、東京都立大学から私の母校に非常勤として出講されていた烏村教授の社会学史を筆者が学部生として受講したときに、烏村教授はすでに教授であった。そのような文字通りの若輩である筆者が、烏村教授の全業績を総括紹介することなどは、僭越きわまりなく、おそれ多いことであり、極私的な思い出や学生たちの声を、以下少々書き記すことで、ご紹介にかえたいと思う。ご海容いただきたい。

烏村教授は、筆者が専門とするライト・ミルズの学説研究でも、先駆的な仕事をされた研究者のお一人である。とりわけ、『新しい権力者』の翻訳は、共訳者の長沼秀世氏とともにアメリカ社会の事情を精密に調べ上げている点で、後進の手本となる力作であった。そんなこともあり、尾高賞を受賞された『日本社会学史研究』をはじめとする日本の社会と社会学史に関するお仕事や、論争的な論考をあつめた論文集などを、筆者は、系統的に収集し、読んできた。

筆者がもっとも愛読したのは、上記翻訳やミルズに関する論考を別にすれば、アメリカの黒人大学留学記である。留学先は、『黒人の魂』の著者デュボイスなども学んだフィスク大学である。南部全体に拡大してゆくことになる「座り込み運動」が始まった1960年に烏村教授は渡米され、ワシントン大行進の前年、ポートヒューロン宣言の出される直前の1962年の3月に帰国されている。こうした時期に、フルブライト留学生として、こうした選択をし、それを体験記に書きつけていたのを知ったとき、冷徹で強面の論争的社会学者烏村望の若き情熱を見たような気がしたのは、強く印象に残っている。

筆者が烏村教授を生ではじめて見たのは上記講義の教室である。淡々と話をされている姿に、論争家とも熱血漢とも違うハイブリッドな人間像を感じ、正直共感をおぼえた。しかし、教材の古典文献に歯が立たず、講義にもほとんど出席せず、そして諦念や悲しみなどという言葉を軽々しく用いるいささか安普請の共感だけで勝負しようとしたため、合格点をいただくことはできなかった。もちろん、印象に残る不合格などではなかったことは当然のことで、その点は最近確認ずみである。「元同僚」としてこのような文章を書いている奇遇に驚かざるをえない。

烏村教授が、G・H・ミードの研究を本格的に始められたのは、80年前後に、オーストラリアに留学されたころからではないかと思う。少なくとも、教授の論文や著作の題目にミードが登場するのは、そのころからである。ちょうど、ルカーチ門下ブタペスト学派のヘラーなどが移住するなどして、私たち社会思想史専攻の者にもオーストラリアの社会科学が注目された時期だったと記憶している。

東京女子大学の学生には、烏村と言えばこのミードで、ミードは教授の代名詞ともなっている。一年の演習から、各種授業、そして卒論指導まで、ミードの話をくり返されるからである。ただ、昨年だったか、卒業謝恩会での主任挨拶を、「ミードは・・・」と始められたときには、さすがに学生たちも度肝を抜かれたようであった。最近では烏村教授も、授業中時には、駄洒落などのいわゆる「おやじギャグ」をとばしたりするという。また元国体体操選手の特技を生かし、ミードの態度取得概念の説明に、年齢からは想像もつかないものすごい高さの垂直ジャンプパフォーマンスを突然用いたりして、態度取得していない学生たちをびっくりさせているとも聞く。

しかし、一切阿ることなく、一徹に社会学の古典を教材として、研究成果を講じられる烏村教授の学問姿勢が、学生たちに強烈な印象を与えてきたことは今も昔も変わらない。「いつ研究室にうかがっても、教授は大学に来られていて、机に向かい、ミードの著作を読んでいらっしゃいました。そのお姿は、どんなことばよりも厳しい研究ご指導だったと思います」。大学院にすすんだある学生の証言である。最後に烏村教授のご健康と、ますますの研究のご発展をお祈りし、むすびとしたい。
伊奈正人 いなまさと 社会学)(『論集』東京女子大学学会誌に掲載されたものを一部修正)。