烏村教授ネタ二題

◇烏村教授クラスの「うつけ者」をめぐる話
ちょうど一年ほど前のことです。川原泉のマンガに出てくる座敷わらしみたいな一年生が二人、でへでへと笑いながら研究室に入ってきて、「先生ぇー。のぞむせんせー、今日はこないんですかぁー」とききました。瞬間、意味が分かりませんでしたが、はっと気づいて☆☆☆。ハトに豆鉄砲とはこのことです。それは、大学に赴任当初、授業中「先生トイレ」と言われた時の比ではありませんでした。「そんなこと言われても困りマンモスぅー」とおどけて言っても、寒いなどとはつゆほども思わず、だはだはとウケたかもしれないくらいの連中を前に、口あんぐりしてしまいました。これではいけないと、私は即座に気を取り直して、「誰のことだ」とキッパリ問い質したのでした。烏村教授が「バトルモード」に入ったときの戦慄を知るものには、アンビリーバボー、超ジラレナイシンと叫びたくなるような話であります。これを上級生に話したら、「彼、たしかにセクシーかもしれない」という、わかったふうな口をきいたのがいます。しかし、それでも、たとえば「ペペルモコ」の味わいがさすがチミたちにはすこしわかってきたみたいだねというような、年輪みたいなものも同時に感じて、ちょっとイイカンジでした。巧言令色?

◇「社会学史」をめぐる話
数年前、烏村教授が担当されていた「社会学史」の授業を、教授が病気療養中代講させていただく機会がありました。感慨深いものがありました。それはなぜか?大学三年の時の話しです。都立大学から講師でこられていた烏村教授の「社会学史」を、私は「受講」していました。忘れもしない水曜の一時間目。寮生だった私は、朝寝て夕方起き、すぐに酒飲みに行くなんていうのが基本的な生活リズムで、三時すぎからのゼミに遅刻したこともあるくらいでして、一時間目の授業に出るなんぞ徹夜明けくらいのもので、それも二日酔いの意識朦朧トリアタマ状態でじぇんじぇん理解できなかったのです。そんなわけで、私は見事玉砕したのでした。寮の奴らは、みんな同じようなものでした。ゼミ以外の授業に出てるなんて奴はまれでしたし、一年の語学や体育を四年まで残しているなんてざらでした。毎日新聞にうかった友人などは、学歴不問をいいことにさっさと中退しちゃいました。むしろ私は、一年留年しただけ(?)で大学院に受かったので、学問的助言など求められる存在だったのであります。ただ、大学院に進んでから、後輩に「ボカァ将来社会学者になるのよ。まかせなさい」と、胸を叩いて社会学の課題レポートを書いてやったら、みごとおとされ、栄光の日々は長くは続きませんでした。

その後烏村教授はご快癒され、講義中にミードの態度取得概念を説明するため、突然お年からは信じられないような高さに垂直ジャンプされたりしているようです。元国体体操選手であることを知らない学生は、老人が突然高く飛翔するので、かなり驚くようです。大菩薩峠の片岡知恵蔵みたいって言っても誰もわからないだろうけど、ビデオ見たら恐怖感の描写としてあまりに適切であることがわかるでしょう。