伊奈正司著・伊奈正人解題『やけあと闇市野毛の陽だまり』

購入される方は、486339070XというISBN番号を添えて書店に注文するか、もしくはハーベスト社に直接注文が確実です。Amazonは時々出ますが、すぐなくなります。在庫は成城堂、有隣堂本店。紀伊國屋新宿南などにあるようですが、確実ではありません。


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http://nogelog2014.hatenablog.com/archive/2014/9

やけあと闇市野毛の陽だまり─新米警官がみた横浜野毛の人びと

やけあと闇市野毛の陽だまり─新米警官がみた横浜野毛の人びと

内容紹介

昭和23年、闇市でにぎわう横浜野毛にのろまでどじな1人の若者が巡査として赴任してきた。 「のろまの竹さん」とあだ名されたこの若者がみたものは、どろぼう・進駐軍・やくざ・風太郎・ヒロポン中毒者・売春婦・浮浪者・浮浪児などが目の前に行き交うカスバのような街。 日々、彼ら/彼女らと接しながら街に暮らす人びとに支えられ、街の治安に奔走する。 そのような戦後の一時代を「のろまの竹さん」は、たしかな記憶で文・イラストを駆使し細部まで描く。そこには貧しく混乱した社会で戦後を生き直す若者や街の人びとが巧まずして記録されている。 それはまさに原初的なフィールドワーカーの眼差しともいえるだろう。

出版社からのコメント

著者の伊奈正司さんは90歳になられた現在も、元気に野毛で暮らしておられます。 70年ちかくも昔のことを細部まで記憶されていて、細部に描かれたものにいろいろな発見があるでしょう。 イラストも退職後絵を勉強され、ご自分で描いています。 戦後の混乱した一時期、本書で描かれたような世界が日本のあちこちで現出したことでしょう。そこに様々な街のコードや下位文化を読み取ることもできるでしょう。

『社会学的想像力』誤訳集 from名古屋大学

 名古屋大学の上村泰裕先生が、大学院ゼミで検討された結果を、「改訂時の参考に」と言うことで送ってくださいました。また、以前に作成した重要箇所の抄訳のリンクもお知らせいただきました。http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~kamimura/mills.pdf いずれも、精読する上で重要な資料と思いますので、先生の承諾を得て、公開共有させていただけることになりました。活用いただけましたら幸いです。

 ミルズ『社会学的想像力』(ちくま学芸文庫、2017年)誤訳集


【1章】

17頁
一つの方法にすぎない→ただ一つの方法だ

19頁
私的問題→困難

21頁
なにが最良なのかをめぐる試金石→最良なもののしるし

24頁
私的問題→個人的困難

33頁
始末に負えない→制御不能

34頁
評者→コメンテーター

この用語を用いることで、非常に強い信念を示すことができる。他の用語や省察スタイルは、問題の回避や曖昧化にすぎないように見える。
→物理学や生物学の用語に絶大な信頼を置くことができる一方、他の用語体系や思考様式は逃避や曖昧化の手段に過ぎないかのように思えてくるのである。

37頁
自然が明白に征服され、食糧難が解決されたのはほぼ間違いない、と過剰開発された社会の人間は感じている。
→自然の征服と欠乏の克服はほぼ達成されたと超先進社会の人々は感じている。

40頁
大きな図絵→全体像

41頁
…テーヌは、現代への関心が強く、よい歴史家たりえなかった。理論にすぐれていたので、よい小説家たりえなかった。そして、文学を、特定の時代や国における文学の記録であると考えていたため、一流の批評家たりえなかった。
→彼はたんなる歴史家になるにはあまりに現代への関心が強く、たんなる小説家としてやっていくにはあまりに理論家であった。たんなる批評家として一流の地位を築くには、彼の文学思想はあまりにも一時代ないし一国の文化全体の記録でありすぎた。

彼はこうした著作により実証主義思想を伝えた→彼の実証主義の手段であった

44頁
技術者→技術屋

【2章】

75頁
政治の正統化とその根拠→政治の正統化とその原因

76頁
理論(the theory)→唯一の理論

79頁
「共通価値」をひとつにまとめることは決して必要ない
→「共通価値」の統一は決して必然ではない

81頁
だいたいにおいて、私たちは常にそうした決着に止まるわけではないのである
→とは言うものの、私たちは常に最終段階に直面しているわけでは決してないのだ。

82頁
の鍵→を理解する手がかり

83頁
アンカー・ポイント→判断基準


86頁
それぞれずいぶんと異なる→それぞれの社会でずいぶんと異なる

88頁
調和(correspondence)→一致

「統整(co-ordination)」→「調整」

92頁
理論体系→この理論体系

抽象的な理論体系→この抽象的な理論体系

93頁
グランド・セオリーというものは、問題も、検討も、解決も、威厳たっぷりの普遍的な理論性をもっている
パーソンズの問題、方針、解答のいずれも、傲慢なまでに理論的なのである

【3章】

96頁
「意見(opinion)」については、通常の時事的・一過的な典型的政治問題についての発見だけでなく、態度、感情、価値、情報など関連する行為を含めて、私は考える。
→「意見」と言うと、時事的一過的な、典型的には政治的なテーマに関する意見をさすのが普通だが、私は、態度、感情、価値観、情報、および関連する行為も含めて考えることにしたい。

100頁
「移行」されることはなく→「翻訳」などできるはずもなく

ヴェーバーが試論的に統計化した「社会階級」
→統計では扱いにくいヴェーバーの「社会階級」




101頁
アメリカの階級、地位、権力などの構造→階級、地位、権力などの全国的構造

技術者→技術屋

107頁
一般化するにはお粗末な主題→一般化するのは好ましくない主題

108頁
なんらかの→ある種の

その特徴的な方法ではなく、方法論的という専門性から定義する
社会学に特徴的な方法によって定義するのではなく、方法論の専門学科として定義する

110頁
幸福の評定を集める→幸福を測定する

114頁
社会学者が突然→この社会学者は突然

115頁
不適切→不十分

具体的な問題→自分の具体的な問題

118頁
明らかにポリシー→明示的な方針

119頁
ポリシー→方針

お粗末な承認→通り一遍の挨拶

121頁
研究実践は→実際には

128頁
杓子定規なものではないこと→いかに何とでも言えてしまうか

130頁

経験主義の明解な方法は、哲学とは区別されるもので
→経験主義の哲学はさておき、経験主義の個々の方法は

【4章】

135頁
社会科学者はしばしば自分たちが合理的であると思い込んでいるわけだが、すべての人がそれと同じくらいに合理的なわけではない。
社会学者はみな、自分が信じているほど合理的ではない。

139頁
全体像→全体

140頁
公共の財→公共の財産

147頁
宗主権力→宗主国

149頁
制度づくりを行う→制度的な

152頁
と誰かがかつて言ったに違いない→と言った人がいなかったっけ。

154頁
古い考え方と新しい事実は、しばしば新しい考え方より重要であることが多いが、しばしば教室でのテキスト「採用」数を制限する危険のあるものとして考えられる。
→古い考え方と新しい事実は、しばしば新しい考え方より重視される。教科書に新しい考え方を盛り込むと講義で採用されにくくなる、と考えられているからである。

155頁
個人事案→個々のケース

156頁
事案→ケース

157頁
「ふさわしい」→「必要とされている」

160頁
社会性をまとっていない言葉→社会的にむき出しの言葉

【5章】

179頁
問題の特定・選択→明確な問題の選択

こうした公衆から…重視してきたのである。
→何ものにも囚われない客観性という考え方は、曖昧で一定しない圧力に対する敏感さに基礎を置くものであり、したがって、ささやかながらも独立していて指図されない研究者一人ひとりの関心にこそ基礎を置くものだったのだが、それがこの公衆からクライアントへの移行によって掘り崩されることは疑いない。

182頁
調査技術者→調査技術屋

183頁
当時主流であった西欧の思考モデルに熱中していた
→西洋社会の主要な思考様式を身につけていた

184頁
調査技術者→調査技術屋

185頁
技術者→技術屋

187頁
技術者→技術屋

192頁
遠大→誇大

202頁
「集合的な自己制御」には…可能になる。
→これまでにさまざまな種類の「集合的自己制御」が考案されてきた。集合的自己制御について十分に論じようと思えば、自由と理性、理念と価値に関するあらゆる問題を論じなければならない。さらに、社会構造の一類型としての、また一連の政治的期待としての「民主主義」の理念についても論じる必要がある。

【6章】

207頁
役立つものである→それなりに役立つものである

想像力を解放して→モデルによって想像力を解放して

研究のヒントを得る→モデルから研究手続のヒントを得る

臆病→おかしな心配

210頁
方法論議が現れている→方法論議が実際に行なわれている

212頁
警告を受けている→警告したい

213頁
研究を行え!→仕事をしろ!

アイディア→理念


214頁
アイディア→理念

217頁
ポリシー→方針

219頁
ポリシー→方針

220頁
ポリシー→方針

221頁
マクロ的→巨視的

ラインナップ→構成

に基づくものである→しだいである

222頁
究明はおろか対峙すらされてこなかった→解明も対峙もされてこなかった

【7章】

230頁
大規模な歴史的構造の観点から、小規模な生活圏を選択して研究する必要がある。
→小規模な生活圏は、大規模な歴史的構造と関連づけて選択し研究すべきである。

233頁
調査専門家→調査技術屋

236頁
全体主義的であり形式的には民主的でもある
全体主義的なものも形式上は民主主義的なものも含めて


237頁
非個人的→非人格的

239頁
主要西側諸国→主な西洋諸国

242頁
百科事典的→百科全書的

【8章】

246頁
今のところ→いまや

247頁
主題が軽視されて→主題が当然視されて

250頁
という意味である→ことを意味する

253頁
歴史的で比較可能な素材→歴史的素材や比較的素材

254頁
固有の時代の観点で→特定の時代と関連づけて

一つの独特なパターンのようなもの→何らかの独特なパターン

255頁
そう言ってよければ→ないしは

258頁
自律的な創造→自律的な創造物



266頁
しかし撤退するためには、歴史と社会の性質について、有益でもなければ正しくもない想定をする必要がある。
→しかしそんなことをすれば、歴史と社会の本質について有益でも真実でもない想定をするはめになるだろう。

277頁
多分そうするはずである→多分そうすべきなのである

【9章】

280頁
私たちを混乱させる→私たちに方向を見失わせる

282頁
であり続けるのであれば→であり続けるべきだとすれば

283頁
言い換えられねばならない→立て直す必要がある

286頁
このような合理化という支配的趨勢の影響を考えれば
→合理化という支配的趨勢のこのような作用を前提として

288頁
現代の社会科学の怠慢になりうるものにそれほど深く関係する
→現代の社会科学では放棄されかねない

289頁
今日ではややもの悲しそうな側面→今日ではむしろ切ない側面

291頁
それを定式化することにあるのだろう→それを定式化することにある

294頁
未来は決定されるものだ→未来は私たちが決定できるものだ
そしてネガティブ面でいえば→逆に言えば

296頁
怠慢によって進行する→放棄されてしまう

【10章】

297頁
明確な議論→明示的な議論

298頁
キャッチフレーズ→お題目

304頁
明確な決定→明示的な決定

305頁
自分でかってに選んだ事情→自分で選んだ状況

306頁
自分でかってに選んだ事情→自分で選んだ状況

307頁
彼らの事情→彼らの状況

308頁
陳腐な関心→些末な研究

自由の限界と、歴史における理性の役割の限界を確定させる
→自由と、歴史における理性の役割を極限まで推し進める

309頁
構造的問題について適切に述べるのであれば…
→社会科学者の発言を、彼らの願いを聞き入れてくれそうな生活圏の問題に限定するのは適切ではない。

311頁
権力をもっており、そのことを自覚している人々に対しては…
→権力をもっており、そのことを自覚している人々に対しては、彼らの決定や非決定が構造的結果に重大な影響を及ぼすことを研究によって明らかにし、各種の責任の取り方を教える。

319頁
私たちは主に法律的形式と形式的期待においては
→私たちは主に法律的形式と形式的期待においてのみ

【付録】

329頁
論文を並べる→論文を準備する

336頁
たまには創造的な人でなければならないが→時には想像上の人々であるかもしれないが

あらゆる重要な社会的・知的環境→社会的・知的に関連のあるすべての環境

342頁
格好の研究→格好の仕事

343頁
独創的でなければならない→工夫がなければならない

350頁
本全体に組み入れられる→一冊の本になる

355頁
一般性のレベルを注意して見張ろうとする→一般性のレベルに注目する

しばしば感じるであろう→しばしば気づくであろう

358頁
溺れるかもしれない→溺れかねないから
359頁
サンプルを抽出する前に世界を知る→サンプルを抽出する前に母集団を知れ

362頁
それが問題なのだ→そこが難しいところなのだ

363頁
散文→無味乾燥な文章

あなたの適切な研究→あなた自身の研究

364頁
読まれるだけの地位→読まれるだけの資格

365頁
自分にどんな地位を要求しているのか→自分にどんな資格があると主張するのか

368頁
誰に読まれるのだろうか→誰に読まれたいのか

373頁
超歴史的構築→歴史横断的解釈

比類のない大事件→一回限りの出来事

狂信的になってはならない→マニアになってはいけない

【原注】

382頁
五〇パーセントが冗談→五〇パーセントが冗漫

社会学的想像力ノート3 translation

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

 パーソンズについては、「どんな心ない批判を受けても、なぜそれを言われたかを常に考え抜いた人だ」と、しゅ〜矢澤が授業で紹介したのが印象に残っている。ミルズの『パワー・エリート』だけははげしく批判したパーソンズだが、ミルズの批判を受け止めて、さらに論を展開しているようにも思われる。社会進化論、『政治と社会構造』、とりわけシンボリック・メディア論、そして日本で行われたパーソンズ・シンポでも行われた人間条件パラダイム等々。
 そうしたパーソンズに対して、ミルズは随分な批判をしているのもまた確かである。パーソンズの著作のわかりやすさ(intelligible)を問題にして、それを「普通の英語」に翻訳するという方法をとっている。ミルズはふざけたところもある人で、テキサス出身のアーバン・カウボーイを自負して、真っ黒なつなぎを着て巨大バイクでニューヨークの街をぶっとばして写真を撮らせたり、ホワイトカラーの表紙ではホワイトカラーを自ら演じたりしている。翻訳というやり方も、同じように調子に乗りすぎた結果かもしれない。
 さて、翻訳だが、まず長々と引用して、呆れて読むのをやめないでください、などとかますところからはじめる。555ページの『社会システム』1冊もこんなに短くできると言っている。随分ふざけた言い方だし、酷い話である。
 しかし、自分の本も一文で要約できると言って行っている。またパーソンズの本は検討に値するとも言っている。なぜなのか?大衆社会論争、中間階級論争、権力論争、さらにはもしかすると現代資本主義論争の核心部分につながっている論点にパーソンズが向かい合っていて、そこに一つの結論づけを行っていることを示すためではないか。そしてそれを批判して、論争の争点を際立たせるためではないか。
 読んでみると、いささかアレな部分もあるミルズの著作なのだが、そうした社会の根幹と関わる論争にコミットした議論であるがゆえに、今日もなおいろいろな検討が行われているのかもしれない、ということは、少なくとも仮定してみる価値はあるように思う。「なぜグールドナーではなくミルズなのか」というタイトルの論文があって、私なども、まぢかよ、と思ったりもしたのだが、最近は理解できる面もあると考えている。


 翻訳論については、ベンヤミンの翻訳論との関連なども気になるが、さすがに牽強付会かも知れない。この問題については、成城大学紀要の矢澤修次郎教授退任記念号に「公共社会学の現代的条件 : プラグマティズムと「公衆との対話」 」という論文を書いている。東北大学で行われたシンポジウムにおける矢澤先生の批判に応えたものだが、翻訳論の論点は、いまだに気になっている。
 純粋社会学などというといくらなんでも大仰であるが、ミルズの批判は、社会科学の原基的な問題を見すえ、現代社会論を根源的に問い直すためのものではなかったか。そして、翻訳はそのための方法ではなかったか。ミルズの翻訳は、痛快無比ということもあるかもしれないが、ひとつひとつを丁寧に整理しながら読んでゆき、現代社会の論争と照らしあわせてみるとじつに味わい深いようにも思われる。少し長くなるが、最後に引用しておく。論文へのリンクは引用末尾にある。

柄谷行人は、二葉亭四迷を中心に翻訳論を展開した折、ルターの聖書翻訳に触れ、ジャコビーが言った人々に届くということとは正反対の面に触れている(柄谷行人2005)。それは、ラテン語の聖書によって、近代ドイツ語が体系的に整備されたという側面である。柄谷は次のように言っている。


「ルターが『聖書』をドイツ語の俗語で翻訳したこと、そして、それが標準的なドイツ語になったことはよく知られている。フィヒテは、ドイツ語をギリシャ語のみが比肩しうる唯一の原言語であり、その他の不純な言語と異なると言った。彼はドイツ語が翻訳によって形成されていることを忘れて、そのオリジナリティを主張しているのだ。ドイツ語だけではない。近代なナショナルな言語はすべて翻訳を通して形成されているのである。しかし、大切なのは、何故ルターの翻訳がドイツ語を形成してしまうほどの強い影響力をもったのかということである。ベンヤミンは、ルターの『聖書』がもった影響力を、やはり、それが逐語的な翻訳であったことに見出している。」(柄谷2005、p.14-15)


わかりやすい、こなれた訳をする意訳は、意味に囚われた翻訳である。これに対して、逐語的翻訳とは、翻訳元において意味に囚われている「純粋言語」を、翻訳先のことばにおいて救済する作業である。そう柄谷は言う。(柄谷2005 p.13)ルターの翻訳は、テキストへの揺るぎない信仰に基づいたものであり、神聖なもの、純粋なものを救出する営為であった。翻訳とは神的な不変に向けた探求である。柄谷はベンヤミンの翻訳論を引用している。


「純粋言語とは、みずからもはや何も志向せず、何も表現することもなく、表現をもたない創造的な語として、あらゆる言語のもとに志向されるものなのだが、この純粋言語においてついに、あらゆる伝達、あらゆる意味、あらゆる志向は、それらがことごとく消滅すべく定められたひとつの層に到達する。そして、まさにこの層から、翻訳の自由はひとつの新たな高次の正当性をもつものであることが確認される。この自由は、あの伝達される意味――この意味から解放することがほかならぬ忠実さの使命なのだが――によって存続するのではない。翻訳の自由はむしろ、純粋言語のために、翻訳の言語を拠り所としてみずからの真実性を証明する。異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること、作品のなかに囚われているものを改作のなかで解放することが、翻訳者の使命にほかならない。この使命のために翻訳者は自身の言語の朽ちた柵を打ち破る。そのようにして、ルター、フォス、ヘルダーリンゲオルゲはドイツ語の限界を拡大したのだった。」(ベンヤミン1996、p.407-408)


 ここに描き出されている翻訳は、普遍的な純粋性、神聖性に向かうことであり、翻訳者はそれを実践する歴史的な主体である。公衆を、そうした翻訳者としてとらえ返すこともできるであろう。対話する相手が、社会的な弱者、マイノリティ、あるいは「向こう岸」(良知力)の人々である場合も同様であろう。そうした対話においては、当たり前を疑い、異化することは、純粋型を探求する双方向的な共同作業としてとらえられることになる。そしてこう考えることで、大衆文化におけるアウラに注目すること、わかりやすく語ることなどが、普遍的な歴史的主体の往還的、媒介的探求として明確にとらえ直される。
 ミルズが提起した動機の語彙論は、ことばの原基的構造を問うものだった。これを、ことばの純粋型などと読み替えれば、翻訳と言語の純粋型という論脈に接続することも可能となる。また、ミルズにおける公衆論の展開、世界戦争論などを、動機の語彙論に照らして、歴史の主体論として読み替えてゆくこともまた可能となる。こうした解釈を採るならば、アメリ社会学のなかで例外的にヨーロッパ的な視点に立った社会学者、晩年のマルクス主義への接近といった旧来の解釈を検討しなくてはならないかもしれない。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009889140
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社会学的想像力ノート2 grand theory

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

 パーソンズの『社会システム』についての章に、「グランド・セオリー」というタイトルがついている。これをどう訳すかはずいぶん悩んだ。旧約の鈴木広先生は、「誇大理論」という訳語を用いている。書物のなかには、パーソンズの理論を「裸の王様だ」に喩えたりしているところもある。1995年に新訂版が出たときも、初版の訳語にクレームがついたエピソードなども紹介しながら、訳語をかえなかった。理由は、ミルズの言いたかったニュアンスを最もよく伝える訳だからということだった。
 Milieu もそうだが、ミルズはいろいろなものの両面に注目した人だと思う。端的に言えば、オルタナティブの根拠づけという面と、その盲点、ミルズのことばを用いれば罠という側面である。社会学的想像力では、概念体系、計量調査、制御と予測、実用性、スペシフィックに考えること、合理性、自由などさまざまなものがとりあげられているが、その隘路を批判すると同時に、その可能性を開示させようとしている。となると、誇大理論という訳語で表されるのは、システム論の一面ではないかと思うのである。概念的な一般理論体系というものも、積極的に評価されるべき一面が他方であるということになる。
 いろいろ議論を重ねて、誇大理論という訳ではなく、グランド・セオリーとカタカナ書きすることにした。ミルズのニュアンスをこの方がよくあらわせると思ったからである。ミルズが批判したとされるシステム理論や計量的調査は、今日さまざまな社会問題の考察に用いられている。


 旧訳が訳された当時は、記号化、計量化するような「精密科学」、その根底にある確率論的なアプローチが、イデオロギー的に批判された時代で、ミルズの批判はそのような文脈で読まれ、評価されたことは間違いないように思う。私は環境問題の研究会にいて、他方でこうしたイデオロギー批判をゼミで学んだ。そのなかで、ゼミの先生にぶつけた疑問をきっかけに大学院の入院主題を決めた。このことは、中村との共著でも触れている。

 1961年秋に睡眠薬として用いられていたサリドマイドを妊婦が用いた場合の副作用に対して、ドイツ(当時西ドイツ)の小児科医レンツが警告をする。イギリス、スウェーデン、ドイツなどの諸国では、製造の中止と製品回収が即座に行われた。1962年5月に『朝日新聞』が、サリドマイドの薬害について報道を行い、事件は大きな注目を集めた。論壇などでも論争が展開されることになる。しかし、日本では行政的な対応も、企業の自主回収も行われなかった。結果として、軽度の場合は指の一部、重度の場合は四肢全部に欠損がみられる子供が誕生することになる。被害者は1000人弱と言われる。国と厚生省、取り扱い製薬会社の責任を追及する損害賠償訴訟が起きた(1974年製薬会社と原告が和解)。いわゆるサリドマイド事件である。
 裁判において有力な証拠として用いられたのが、いわゆる疫学的方法で、推測統計学を用いて、サリドマイドの使用と四肢欠損の発生の関わりを調べ、両者の間に統計的に意味のある関係があるかどうかを調べた。製薬会社は、推測統計学の方法をマルクス主義の立場から厳しく批判を行っていた哲学者に面談を申し込む。サリドマイドと四肢欠損との「因果関係」を統計的に推測することが学問的に問題があるということについて、学識経験者からの意見を求めるという製薬会社の意図に、哲学者は気づいた。そして、哲学者は、一つの論考を発表した(岩崎1973)。大企業が、「敵」であるはずのマルクス主義の哲学者の意見を求める。マルクス主義の哲学者が、批判対象であった推測統計学的方法――この場合は被害者の立場にたった立論をしている方法――の妥当性について論じる。こうした状況で哲学者の論じている内容は、科学の立場性、社会問題をめぐるクレイム申し立てといった問題とも関わる興味深い内容を含んでいる。
 そのなかでも一番興味深いのは、哲学者の議論において――確率論などの妥当性の吟味とならんで――「精密科学化」に大きなポイントがおかれていることである。統計や数学を精密化のために利用することはよいとしても、精密化が自己目的化し、あらゆる探求が「精密化のゲーム」に解消されてしまうことを批判している。精密化が一人歩きすると、扱う問題が矮小化されてしまったりする。哲学者は、そういった論点について再確認している。・・・(中略)・・・
 しかし、ミルズもサリドマイド問題における推計学的論証を批判したりはしないだろうと思われる。ミルズは、方法それ自体を否定しているわけではない。ミルズが批判しているのは、「方法の一人歩き」であり、探究が数量的な方法に解消されてしまうことである。探究を概念操作に解消するものとしてグランド・セオリーが批判されたのと同様に、数量的な方法へと探究する議論をミルズは批判した。そうした議論の背後に、アメリカ民主主義体制を「最終決着」とする論理をミルズは読解していた。システム論も社会調査も、「同じ盾の両面」として、最終決着の論理――端的に言えば社会の工学的制御――をになうものとミルズは考えていた。
伊奈正人・中村好孝『社会学的想像力のために』世界思想社 第3章冒頭)

社会学的想像力のために―歴史的特殊性の視点から

社会学的想像力のために―歴史的特殊性の視点から

 実はこのエピソードを入院試験前の夏合宿の報告で紹介し、問題提起を行った。先生は即座に、「私は民衆の立場に立たない証言は行わない」と繰り返された。この意味を考えるために社会学に転向すると入院の面接で私は宣言した。正直自分でもよくわからなかったのであるが。

社会学的想像力ノート4 trap

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

 書き出しの一文、まだどう訳したのかという問題が残っていました。1日何冊ではなく、1行に何日かけられるかが勝負だ、というような先輩たちにしばかれながら勉強したもので、この一文に一ヶ月くらいかけたわけで、話があちこち飛ぶこともありますが、それだけではありません。


もう一度引用しておくと、原文は次の一文である。

Nowadays men often feel that their private lives are a series of traps.(SI p.3)

個人的な生活が一組の罠なのであって、そこに罠が仕掛けられているわけではない。個人的な生活=生活圏・ミリューとイコールでむすべるかはわからない。ともかく、個人の生活圏は、罠である。生活圏の含意からすれば、可能性でもある。そうならないかと考えた。
で、一組であるとか、ひと連なりであるとか、一つのからくり仕掛けであるとか、そういう訳し方にずっとこだわっていた。編集者は、それを最初の最初から、「罠の連なり」と添削した。確かにリズムのイイことばだと思った。しかし、a series of がどうしても気になる。で、何度もチャレンジしたのだが、OKが出ない。
結局、こう訳すことになった。

こんにち、自分の私的生活は罠の連なりなのではないかという感覚に、人はしばしば囚
われる。

 ゲラを見ながら思い浮かべたのは、むかし皮肉交じりに言われたことばである。「要するに、ミルプラトー俗流にインチキに理解したつもりになっただけぢゃね?」まあたしかに、そんなものちゃんと読んではいないに決まっている。しかし、そういうものが出てきた時代というものは、ちょこっとだけカスっているかもしれない。少なくとも『構造と力』の最初の章だけは、ちゃんと読んだと思う。千のプラトー、千の罠というイメージが浮かび、上記の訳をすることになった。

社会学的想像力ノート1 milieu

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

 社会学的想像力の翻訳があと二週間ばかりで出ます。この本の解説は、共訳者の中村好孝が書いています。現代資本主義論やハーヴェイの翻訳をいろいろやってきた中村の解説は、一方でオーソドックスな社会科学の構造変動論を踏まえ、他方で精神保健福祉士でもある中村のひきこもり研究、そして自らのひきこもり経験を踏まえた社会学的想像力の産物であり、非常にわかりやすいものです。パースのアブダクション研究との関連など、専門的にも味わい深いものになっています。これは出版社のサイトにいずれ公開されるのでTwitterにリンクを貼ることにしたいと思っています。
 私はノートを公開することにしました。訳はノートに比べれば数段すっきりしていますので、気が向いたらお手にとって下さい。


 書き出しの一文。旧訳。「こんにち、人びとはしばしば自分たちの私的な生活には、一連の罠が仕掛けられていると感じている」(旧訳 p.3)。原文を見てみる。

Nowadays men often feel that their private lives are a series of traps.(SI p.3)

「こんにち、」は、「なんとなく、クリスタル」なみに上手いよなと思った記憶が蘇る。「いまどき」とやってみたい気持ちはグッと抑える。紋切り型のことばを使うとろくなことにならない。
 次に、man が複数型になっているのが気になってくる。ハイデガーのダスマン意識してないのかなトカ、女子大が誇らしげにwomanが複数形でないことを強調していることなどが思い出される。
 続く名詞節、直訳すると「プライベートな生活は、一組の罠である」になるはずだ。プライベートな生活は、罠、からくり、だまし絵であるという訳が思い浮かぶ。だまされないためには想像力って、どう考えても違うよな、と思う。
 少し文脈を確認と思って、読み進めると、‘milieu(x)’という用語が出てくる。共訳者の中村が、最近ミリューと訳すことが多いと教えてくれる。検索して樋口直人他「東京の社会的ミリューと政治」を見る。80年代以降の内外の研究動向が詳細にレビューされている。政治的なオルタナティブの論定の基礎として用いられていることがわかる。学説史研究、文化社会学研究という観点からは、田中紀行「現代ドイツにおける〈文化と社会構造〉研究 ―― ライフスタイル研究を中心に」が重要であることも知る。この概念の源流として、テーヌ、コント、デュルケムなどの系譜があるからである。
http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/soc/soc20-5.pdf
 じゃあなんてミルズがこのことばを用いたのだろうか。特にリファランスはない。いきなり使っている。ミルズの言う「古典的社会科学」において、一つの系譜を持つことばである。しかし、社会運動のオルタナティブ論定の文脈に関連づけてしまうのは少しおかしいような気もする。
一番気になるのはテーヌである。ミルズは、社会科学者としてのテーヌに言及している。ググるコトバンクにブリタニカ国際百科事典からの引用が載っている。「「中間」「環境」を意味するフランス語。芸術現象を地理的・空間的方向において外部から規定する環境的因子をさす。ミリュー説の主唱者イポリット・テーヌの実証主義的,決定論的見解によれば,ミリューは「人種」 race,「時代」 momentとともに,芸術をも含めたもろもろの文化的事象を決定する基本的精神状態をつくりだす源泉の一つである。」興味は尽きない。テキサス大学のミルズの資料庫に行く人がいたら、いずれノートなども発掘して論ずることになるだろう。
 ミルズの場合、オルタナティブというような着想はなかったのかもしれない。しかし、知識社会学的な視点から、milieuに注目し、罠であり、可能性の根拠でもあると考えたのではないか、と思われるのである。このへんはいずれまた考えてみたいとは思うのであるが。古典的な社会科学の伝統は、文学とも交錯しながら、歴史的な構造を持ち、心理学的な根を持つ人間社会の重要な側面に着目していた。さまざまな政治的なオルタナティブを根源的に批判する社会学的想像力のキーワードとしてこのことばはあるのだろうと思った。ミルズの知は、両義的なものを知識社会学的に類型化する知ではないか、というのが翻訳において基本となった仮説である。
そんなこともあり、ミリューと訳すことは回避した方がよいのではないか、と提案した。編集者が提案した訳語は「生活圏」である。おそらくは学生時代からあたためていた訳語だと思う。いろいろな意味でドンズバではないかということで、これで落ち着くことになった。


 『社会学的想像力』は、最初の一文読んだだけで、ダメチェッカーを発動する読み手もけっこう多いと思う。罠に落ちないための想像力ってなんだよ、みたいに.もちろんいろいろな時代的な制約はあるし、ミルズ自身のクセのある書き方、アバウトなところ、見栄や気合い、あととんでもなく如才ないところなども手伝って、「使えない」ということになるのだろう。しかし、「使えるものを読み取る」ことばかりが学説研究でもないと、石田忠先生はおっしゃっていた。
 はじめて読んだ1970年代は、「虚偽意識と想像力」、「疎外された人間」などということばを想起して、ダメの烙印を押すようなことはなかった。むしろサルトル竹内芳郎の想像力論などと照らしあわせ、ハンガリー動乱プラハの春、あるいは人間的な主体の問題を<人間>と<>で括るヒバクシャ研究、水俣の運動などの議論が研究会やゼミでとりあげられたりした。


 どうもコミュニケーションや注意力に難があると申しますか、マイワールドのなかを話があっちいったり、こっちいったりするので、論理的思考に向いていないので、ブログに適当に書き散らすか、と思っている次第です。ノートなんか下手に書くと売れなくなると思いますが、一応この機会に書いておきたいことはいろいろありますのでご海容下さい。
ぐちゃぐちゃ訳注つけたかったんすよ。意訳もしたかったし。でも、編集者のT氏と中村に羽交い締めにされて止められたの。
曰く。なぜ訳すか、そこに原文があるから。(訳文を本文無視して)崩したい、でも原文にそう書いてあるんだから。そういうのは、解説でやることでしょう。等々、経験値の高い二人にゆわれると逆らえないッスよ、それは。折れ英語できないしね。でまあ、言い足りなかったことなんかをこの際ぶちまけてみようかと言うことで、はじめてみることにしたわけす。

『社会学で描く現代社会のスケッチ』

 

 いさむしこと徳永勇さんと、編者の山田真茂留先生よりご恵投たまわりました。ファーストステップ教養講座というシリーズの1冊で、非常にわかりやすい編集となっています。編者の友枝先生、山田先生は、たいへん使い勝手のいい、しかしコクのある教科書を編まれてきた実績のある先生方で、Do!では、現代社会学のとりあえずの標準形を示すのに成功していたと言っても過言ではないでしょう。目次を見ますと、

  • 概要

大学等で初めて社会学にふれる学生のためのテキスト。日頃疑問に思っている現代社会のさまざまな現象を、社会学の視点からわかりやすく解説。社会学という学問によって現代社会のいくつかの断面を平明にスケッチすることを試みた。興味のあるテーマから読み進められる構成で、社会を深く知るために最適な1冊。

  • 目次
  • 序章 21世紀の日本社会を生きる――今、大学で学ぶこと
  • 第1部 常識を疑う
  •  第1章 友人とは誰のことか?
  •  第2章 「絆」を強くすれば自殺は減るのか?
  •  第3章 美容整形のきっかけとは?
  •  第4章 日本人は宗教を信じていないのか?
  •  第5章 「未熟」な若者がフリーターやニートになるのか?
  •  第6章 日本人がオリンピックで日本代表を応援するのは当たり前か?
  •  第7章 「いい人」がボランティアになるのか?
  •  第8章 「オタク」は孤独か?
  • 第2部 社会の謎を解く
  •  第9章  なぜ「スマイル」は0円なのか?
  •  第10章 なぜ結婚する人が減っているのか?
  •  第11章 なぜいじめを止められないのか?
  •  第12章 なぜ若者はSNSにはまるのか?
  •  第13章 なぜ原発は東京にはないのか?
  •  第14章 なぜ「家族」を求めるのか?
  •  第15章 なぜネット上で「炎上」が生じるのか?
  •  第16章 なぜ<体育会系>は就活が人気なのか?
  • 第3部 社会の未来を考える
  •  第17章 「格差と不平等」にどう向き合うか?
  •  第18章 「子どもの貧困」にどう向き合うか?
  •  第19章 「地球環境問題」にどう向き合うか?
  •  第20章 「大規模災害」にどう向き合うか?
  •  第21章 「人口減少」は地域社会をどう変えるか?
  •  第22章 「移民」は社会をどう変えるか?
  •  第23章 21世紀における社会と公共性
  • 文献リスト
  • 事項索引
  • 人物索引

https://www.amazon.co.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E3%81%A7%E6%8F%8F%E3%81%8F%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%81-%E5%8F%8B%E6%9E%9D-%E6%95%8F%E9%9B%84/dp/4860154851

 

 

 今回のテキストは、よりスペシフィックなトピックをならべ、社会学の考え方についてよりわかりやすいものになっているように思います。Do!やエッセンスに向かうための足慣らしとも言えるように思いますし、いろいろな活用法があろうかと思います。

 徳永勇さんは、多様な分野で成果をあげ、最近では福祉の面でいろいろな実績をあげられていると聞いています。今回は、一転して、SNSということです。若い頃から、非常に詳しい領域で、ともにSNS掲示板でいろいろ楽しんできた人間として、楽しみに勉強させていただきたいと思っています。

2018年09月02日のツイート