表題の本をご恵投いただいた。特に記名はないが、知っているのは有薗真代さんだけなので、有薗さんが送ってくださったものだと思う。恐縮するとともに、心よりお礼申し上げたい。普通はぺらぺらめくるだけなのだが、一部の論考に読み入ってしまった。そして、ciniiで論文検索し、また図書館で雑誌や本などの検索を行った。
アサイラム(空間)とアジールをキーワードとする研究は、若手の共同研究の成果のようである。主題は、先住民、難民、移民、障害者、ホームレスなど多岐にわたり、部族社会から産業社会までを横断する主題を横断する研究が、くっきりと構想され、粘り強いフィールドワークで描出されている。全体は、開発、難民、福祉という三部だてで、「弱者」がつくりだされ、排除されている現状と、月並みな言い方で気恥ずかしいが、共生の方途を考察している、といえばわかりがいいだろうか。
- 作者: 内藤直樹,山北輝裕
- 出版社/メーカー: 昭和堂
- 発売日: 2014/02/01
- メディア: 単行本
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版元の紹介
先住民、難民、移民、障害者、ホームレス……。さまざまな現場で社会的に排除された人たち。彼らを社会的に包摂するための支援。その包摂が新たな排除を生み出すというパラドックス。遠い世界のどこでもない、いま私たちの足下で何が起こっているのか?
目次
序 章 「社会的排除/包摂」現象への人類学的アプローチ(内藤直樹)
第?部 開発――弱者がつくられるフィールド
第1章 ケニア牧畜民の伝統社会は開発から逃れられるか(内藤直樹)
第2章 エチオピア牧畜民に大規模開発は何をもたらすのか(佐川 徹)
第3章 ボツワナの狩猟採集民は「先住民」になることで何を得たのか(丸山淳子)
第4章 オーストラリア先住民の「暴力」といかにつきあうか(飯嶋秀治)
第?部 難民――グローバリゼーションと国籍
第5章 アフリカの難民収容施設に出口はあるのか(中山裕美)
第6章 アンゴラ定住難民の生存戦略は持続可能か(村尾るみこ)
第7章 在日インドシナ定住難民の「彼らなりの暮らし」はどう保たれているか(岩佐光広)
第8章 第三国定住難民と私たちとの接点はどこにあるのか(久保忠行)
第?部 福祉――私たちは「隣りにいる他者」といかに生きるか
第9章 ホームレス状態から地域社会への移行において何が問われているのか(北川由紀彦)
第10章 野宿者の日常的包摂は可能か(山北輝裕)
第11章 精神障害者の世界は受け入れられるか(間宮郁子)
第12章 脱施設化は新の解放を意味するのか(有薗真代)
終 章 開発/難民/福祉の横断を終えて(山北輝裕)
http://www.showado-kyoto.jp/book/b128031.html
アサイラムは、アジールの翻訳語なわけだが、この二つをあえて並べるところにこのプロジェクトの眼目はある。アサイラムは隔離・包摂と関わる語とされ、これに対して、隔離・包摂自体が、一つの不可侵のサンクチュアリを構成するという胎動を見据える。純粋な関係性を探究する解放の営為が、新たな隔離と包摂を生み出す。そちらの方向から議論していたら、純粋な関係性だとか無縁だとかゆうロジックは必ずパラドックスに陥る。有薗さんからご教示いただき、随所で引用してきた「マイノリティのマイノリティ」ということばを想起した。「上から」「下から」ということばの使用については、疑問が呈されるかもしれないが、私は立論に、ほぇ〜〜と感心してしまったのであった。一つ文章を引用しておく。
網野とヘンスラーによる「アジール」の定義に倣い、「下からの自由と平和」および「不可侵性」という視点から、ハンセン病患者の実践の意味をたどりなおしてみたい。
ハンセン病患者は療養所の入所に際して、一般社会での成員資格やキャリア、場合によっては戸籍でさえ剥奪されることがあった。さらに療養所施設内部では、私物の没収、厳しい監視体制、生活の自己決定権の剥奪など、彼らを無力にし、生の自律性を奪おうとする圧力に日々さらされてきた。その意味において、かつてのハンセン病療養所はたしかに(アサイラム)であり、ゴフマンが指摘したように、そこでは入所者を無力化させる幾重もの周到な装置が張り巡らされていた。
しかし、このような隔離収容施設での劣悪な処遇を、入所者たちはただ黙々と受け入れていたわけではない。隔離政策課での療養所では、そこでの過酷な生活を少しでも改善してゆくために、さまざまな集団的な取り組みがおこなわれてきた。前節であげた患者運動のほかにも、文学や音楽などの文化的活動、および療養所の内外で商売を営む相互扶助的な活動などが、全国各地の療養所に多数存在していた。(p.237)
こうした、実践を通じて、「自由と平和」が「下から」形成される。これだけだと、結局ここに立ち上がる解放主体は逆説に直面し、排除と包摂が再び問題となる。ここで当然のごとく想起されるのは、奥村隆さんの『アサイラム』解釈@『コミュニケーションの社会学』である。以前にも繰り返し論じたことだが、端的に言えば、ゴフマンの『アサイラム』に出てくる医者が来るとわざと悪くなってみせる精神病の患者さんについての読みである。ポストモダン全盛期は、はこれはやらせ、出来レースなどとして読まれてきた。それを「生きづらさ」を抱えた人間の問題として捉え、さらに社会学の古典的な学説と照らし合わせ、自由に生きることと儀式・儀礼という読みを紡ぎ出す。そして、精神病院でプライバシーも何もかも剥奪された人間の自由について洞察する。同様の観点で、討論と自由、パラドックスと自由などを読み込んで行く。同じ服を着せられ、髪型も決められたとおり、すべてを監視され見透かされた人間が、最後の自由な領域を確保するために、わざと悪くなってみせる。表向きの悪さの裏に個人の尊厳領域としてのプライバシーを確保しようとする。奥村さんは、こうしたギリギリの聖域確保をデュルケムなどと関係づけ、理解しようとしていた。有薗さんは、同様の論点を「不可侵」という観点から理解しようとする。人類学の書物らしい、サンクチュアリをめぐる営為である。
患者は療養所に閉ざされていたと同時に、監視と管理のまなざしに対して、あるいはときに「見世物」として、自らを「つねに開いておくこと」をも強制されていたといえる。
生活空間だけではない、身体をもまた「開くこと」を強制されていた。その開いた先にあるものは、新薬の実験台になることであり、断種の犠牲となることであり、自らの死体を解剖に供することであった。
このように「つねに開いておくこと」を強いられてきたからこそ、入所たちは、権力の側から押しつけられた境界線を、裏側からなぞって自ら線を引き直すこと――アサイラムをアジールへと転回させること――を試みたのではないだろうか。私たちの尊厳と魂に、土足で踏み込むな。私たちの生活の痛みと切迫に、安易に触れるな。私たちが働いてきた自由と静寂を汚すな。彼らは自分たちの側から、切断する線をたえず弾き直し、不可侵の効果を招集させるための結界をつくり、それによって、自らのおかれた条件を肯定的なものへと転じていったのだ。(p.239)
「裏側からなぞる」「結界をつくる」こうした、なんと言うか、自然体w のことばを繰り出しながら、フィールドワークをベースに、アサイラム/アジール問題の要諦を鮮やかに描き出しているところは、有薗さんの独創であろう。こうしたこなれたことばで、生活の意味世界を描き出すこと方法は、「上への運動」という問題と対峙するときに再びパラドックスに直面するかもしれない。共生の土俵は、「下から」だけでは済まされない問題であろう。難民問題や「低開発国」における飢餓の問題、人権の問題などを考える場合に、排除と包摂は再び問題となる。迂遠なロジックに遊ぶのではなくとりあえず目の前の問題を解決すること。そこで、近代主義は一つの普遍性を主張するだろう。しかし、そんなことはすでにわかっているようで、第三部のタイトルには「福祉」という文言が使われている。これが、ウェルビーイングではなく、フェルフェアだったら、どうしよお、とか思ったりもしたが、べつに奇をてらう必要もないだろう。
以上は、内藤さんと有薗さんの論考を読んだ感想であり、他の章を熟読しながら、さらに勉強させていただきたい。清水晋作さんの書評のリプライにも一部使わせていただこうかと思っている。拙著を献本した際、船津衛さんは、次はゴフマン、と言ってくださった。このことの意味合いがじわっと広がってくる。妙なことを言うようだが、社会学史的にも重要な問題をいろいろ含む立論であったと考える。