太田省一『紅白歌合戦と日本人』

 太田省一さんから、『紅白歌合戦と日本人』を送っていただいた。その前にも、ちゃぶ山崎論などで話題を呼んだ『社会は笑う』のパワーアップバージョンを送っていただいた。ありがとうございました。各新聞に書評がでていて、今日12月26日はジュンク堂中森明夫とのトークイベント【ノンストップ!「紅白」ナイト】が開かれるみたいだ。「もう天野祐吉小林信彦もいらない。ぼくらには太田省一がいるから」とか、若いもんがゆってるかどうかしらないけど、現代文化をわかりやすく読み解く手業にはたじろぐ。

紅白歌合戦と日本人 (筑摩選書)

紅白歌合戦と日本人 (筑摩選書)

目次

序 私たちはなぜ、「紅白」を見続けるのか
第1章 復興のなかの「紅白歌合戦」(敗戦ショックと「紅白」の誕生
歌う女たち―占領期の歌謡曲
都会のムードと望郷の思い―高度経済成長期の歌謡曲
「紅白」が「国民的番組」となるとき
マイホームと故郷のあいだで―永六輔の登場
一九六三年「紅白」の高揚―テレビが作り出す“日本”)
第2章 豊かさのなかの「紅白歌合戦」(勝利するテレビと美空ひばりの“落選”
新しい音楽と“脱‐安住の地”―フォーク、ロック、ニューミュージックの台頭
謡曲のニューウエーブ―「一億総中流」時代の心象風景
「紅白」というホームドラマ
「熱愛」と「引退」―ワイドショー化する「紅白」
転換期の「紅白」―『熱き心に』と歌謡曲の衰退)
第3章 喪失と再生―八〇年代後半‐二〇〇〇年代の「紅白」(「紅白」生中継が映す“日本”―長渕剛中島みゆき、そして戦後史
「ホームレス」であるということ―Jポップと分散化するコミュニティ
“安住の地”の未来形―アニソンと初音ミク
童謡が「紅白」トリとなるとき
遊び場となった「紅白」―パロディと乱入ゲーム
アイドルという希望―キャラクターの時代とSMAP
終章 3・11以後の
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480015860/

産経新聞書評

 今年もまもなく放送される、大みそか恒例の「国民的番組」(今年で64回目!!)を「私たちはなぜ、見続けるのか」。著者はそう自問し、戦後復興の中での誕生、〈安住の地(ホーム)〉となった瞬間から、昭和38年の「高揚」(東京五輪前年、歴代最高視聴率獲得)、美空ひばりの“落選”を経て、〈脱・安住の地〉化、ワイドショー化、歌謡曲の衰退、SMAPの登場…そして3・11以後までを、膨大な資料を引用しながら鮮やかな論理立てで、微に入り細にわたって解き明かしてみせる。読者(視聴者)は何度もひざを打ちつつ、戦後日本人の精神史の変遷を見届けることになる。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131222/bks13122213050007-n1.htm

 数年前の日本社会学会のシンポジウムで久しぶりに太田省一を見た。坊主刈りで、雪駄にダボシャツでキメれば、競艇とか競輪とかが似合いそうな感じでもあった。記憶のなかの太田省一は、黒い革のジャケットと赤い革のパンツを着こなす感じだった。あらゆるジャンルに精通した知識、とりわけテレビへの造詣に、やっかみ九割で辟易しながらも、「病的なもの」をたたえたアンバランスな表象を的確に捉えることばの力には舌を巻かざるを得なかった。ことばの借り物競走をするのではなく、自然に繰り出すことばが絶妙なのだが、強引に組み敷くのでもなく、ストンと落とすのでもなく、ひらひらゆらゆらしていたのを思い出す。目次の文言などは、そうした記憶からすると、愚形に見えないこともない。しかし、未読で浮かび上がるものは、なかなか意味深長である。
 元々は、たとえば由良君美みたいなところから始まったのかもしれないなどとも思う。ある時期から思想用語や批評用語は封印してしまっている印象がある。そこが魅力でもあり、また、人によっては、物足りなさでもあるのかもしれない。