アラン・ド・リベラ(阿部一智訳)『理性と信仰』

 阿部さんが新しいご高訳を送ってくださった。アラン・ド・リベラの訳業は三冊目になる。たくさんの原注と訳注のついたごっつい本だ。阿部さんは、修論ベルグソンを論じ、ジャンケレヴィッチの訳も出されている。東村山久米川の塾で、いっしょに近所のわるがきたちを教えていた。ミードがベルグソンから影響を受けているということもあり、早口で半可通のつま先だった質問をいろいろした。そんな時、阿部さんは、ほぉ〜みたいなかんじで適当に受け流す返事しかくれない。しかし、たまにスイッチが入って、しっかり話をしてくれることがある。そういう時の話はすこぶる面白かったし、どういう時にスイッチが入るのかを考えることは、何より勉強になった。しかし、それにしてもなんで、この本を送ってくださったのか。七千円以上もする本なのだ。つま先だった学会ごっこなんかには、まったく興味を示さない人だ。なんのスイッチが入ったのだろうか。副題は「法王庁のもうひとつの抜け穴」である。妖しげな副題だろ、ってことだろうか。そんなことを考えて、本をめくった。そして、ネットを調べた。

出版社紹介ページ(詳細目次付き)

「考えること」と「信ずること」の葛藤を支持するリベラルな人間観のために。13世紀西欧の知的世界から現代グローバル社会を逆照射
http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=978-4-7948-0940-7

訳者解説抜粋(上記ページより)

どこで「考えること」を止めて「信ずること」を始めるか。これは特定の信仰を持っていなくても、誰もが抱えている問題である。たとえば訳者は無宗教であるが、元旦には初詣にでかけるし、近親者の霊にはきちんと手を合わせる。脳科学の成果に魅了されながらも、脳科学の前提からすればありえないこと、たとえば、意志の自由を信じている。しかし、「考えること」と「信ずること」の仕分けがそれでいいのかどうかを問い始めると自分が深淵に直面していると感ずる。少なくとも、今の日本社会ではそれは自己責任で遂行されなければならない孤独な課題である。13世紀西欧はまったく逆だった。そこには理性と信仰をいかにすり合わせるかを納得いくまで探求させる制度的保証があった。大学がそうである。とくに重要なこととして、聖書の啓示を探求の出発点にしなければならない神学部の下に、それを出発点にしなくてもよい人文学部(今日の教養学部)が置かれた。本書『理性と信仰』が力を込めているのは、こうした知的世界に出入りしていたさまざまな知識人の学説を考古学者の手つきで拾い集め、歳月の汚れを洗い流すことである。その作業を見守っているうちに、私たちは著者アラン・ド・リベラが大変重要なことをいくつか言いたいのだと気づく。たとえばリベラルアーツ(一般教養)が宗教自体のリベラル化に役立つという指摘。イスラム世界はどういうわけか中世西欧が実現した大学というアイデア(とくにその二層構造)をついに実現しえなかった。しかし最大の眼目は、洗い直された資料群から、ローマカトリック教会の現行の教義体系とは違うもうひとつのパラダイムが浮かび上がるということであろう。そのもうひとつの方が、異なる宗教間の、あるいは世俗と宗教との相互理解に役立つのではないか。そう信じさせるだけの説得力が本書にはある。
 勇気づけられる一冊である。

 これを読んで、私の方にスイッチが入った。もしかすると、どこかでリベラルアーツについて語ったっけ、などと思った。中村好孝との共著を献本したかは記憶に定かではない。まさか今度の本は読んでないだろう。「もうひとつのパラダイムが浮かび上がる」。その「もうひとつの方」が、グローバル化だとか、平和だとか、共生だとかを考える手がかりになる。もう一つじゃないほうが、グローバリズムを帰結している。これってさ、私の今度の本の論旨だよね。もちろん、阿部さんにしてみれば、そんな取るに足りない本のことは眼中にないだろう。かまびすしい喧騒からは距離をとって、試作をしながら、大著を訳された。その訳書を送っていただいたことを、誇らしく思う。本当にありがとうございました。