牧野智和『自己啓発の時代――自己の文化社会学的研究』

 教授会のため何日かぶりに大学。普通は土曜も含め毎日来ていたのだが、さすがに骨折なので毎日は来れない。で、来てみたら、牧野智和さんよりご高著が届いていた。私のようなものにまでご配意いただき、恐縮した。ありがとうございました。
 私はあまり上等な読者ではないので、まずあとがきを見る。ゼミで「火だるま」になった、などと書いてある。あの「D5の夜」を作詞した伝説の戯作者による隠れた名作@TK大学A先生イチオシの替え歌「火だるま」(原曲ルクプル)が耳にこだましたのだろうか、などとくだらないことを考えながら、ページをめくった。まだめくった程度なんだが、怪我なので荷物は最小にしており、今書いておかないといつ書けるかわからんので、なんか書いておきたいと思う。

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

内容

 自己啓発書にはその時代ごとの価値観・社会意識が凝縮されている。自己啓発書ベストセラー、就職対策書、女性誌ビジネス誌の分析から、いつのまにか自分探し・自分磨きへと誘われてしまう現代社会のメカニズムを明らかにする。なぜ自己啓発書が売れているのか、なぜ「◯◯力」が次々と登場するのか、複眼的に考えたい人のために。

目次

はじめに
第一章 「自己」の文化社会学に向けて
 1 「自己をめぐる問い」と社会
 2 「自己をめぐる問い」への文化社会学的アプローチ
 3 「自己の体制」
 4 後期近代と「自己の再帰的プロジェクト」
 5 「自己のテクノロジー
 6 自己啓発メディアという「自己のテクノロジー
 7 本書の社会学的意義
 8 分析のスタンス

第二章 自己啓発書ベストセラーの戦後史―戦後日本における「自己のテクノロジー」の系譜
 1 自己啓発書ベストセラーについて
 2 哲学的思索、記憶術、「心がまえ」と精神論―戦後から一九六〇年代まで
 3 失われた「心」の模索―一九七〇年代から一九九〇年代前半
 4 自己啓発書ベストセラーの分岐点―一九九五年から二〇〇二年
 5 超越的法則論の増殖、仕事術・脳科学ブーム、自己啓発の一般化―二〇〇三年以降
 6 「自己の体制」をめぐる検討課題の提出

第三章 「就職用自己分析マニュアル」が求める自己とその社会的機能
 1 大学生の就職活動における「自己分析」について
 2 「就職用自己分析マニュアル」について
 3 自己分析の定着と目的論の濃密化
 4 過去・現在・未来から「本当の自分」を導出する
 5 自己を客観的に見直し、「輝き」を演出する
 6 自己分析の終着点
 7 自己分析が求める自己とその社会的機能

第四章 女性のライフスタイル言説と自己―ライフスタイル誌『an・an』の分析から
 1 女性向け自己啓発メディアへの接近
 2 ライフスタイル誌『an・an』の特性と資料選定・分析の視点
 3 一九八〇年代以前―変えられる外見、変えられない内面
 4 一九九〇年代前半―心理テストが構築する「本当の自分」
 5 一九九〇年代後半―内面の技術対象化
 6 二〇〇〇年代―あらゆる手段を用いて「私」に取り組む
 7 自己を語る権能の所在―生き方関連特集における記事登場者の分析
 8 自己啓発的言説の社会的機能に関する中間的考察

第五章 ビジネス誌が啓発する能力と自己―ビジネス能力特集の分析から
 1 「力」の増殖とそれを捉える視点
 2 ビジネス誌において啓発される「力」
 3 ビジネス誌において啓発される「自己の自己との関係」
 4 「力」をめぐる権能の偏在・流動
 5 今日的通俗道徳のダイナミズム

終章 自己啓発メディアが創り出す「自己の体制」
 1 内面の技術対象化
 2 自己啓発メディアの社会的機能
 3 自己をめぐる権能について
 4 自己啓発メディアが創り出す「自己の体制」
 5 本書の「効用」

あとがき
文献
索引
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b99589.html?=amazon%26211%269784326653720

 目次でまず目にとまるのが、自己のテクノロジーということばである。論文の構成から言ってこれが鍵語なのだろうと拝察する。つつつ・・・と目次を辿ると、内面の技術対象化という落としどころにいたり、冒頭の自己の体制というタームの位置もスッキリする。自己啓発という主題は、オセロの一件もあるし、すげぇ今日的にキャッチィなものであるし、また人々の関心も高いと思う。簡略版を新書で、などという話も、サクッと舞いこみ、一躍寵児にという展開もあるかもしれないし、そうした可能性を秘めたものであるが、他方で、この本は博士学位論文をベースにした本格派の重厚なものである。主題がチャライからだめなどと、卒論構想についてろくに話も聞かず、チャライ系というレイブリングだけで、切り捨てている自分を反省した。
 言説分析というと、なんかあてずっぽの感性頼みみたいになりがちだが、本書は計量的な研究者との対話も十分可能なかたちでキチッとまとめられている。この水準が求められるとすると、これからの人たちはそれなりの修練が必要になるんだろうな。70年代は社会心理学や文化の理論をキッチリ勉強していれば、あとは何でもありのところがあった。しかし、文化社会学もそれなりに分化し、体系化されていくのだろうと思う。しかし、そんなふうになったら、つまんないだろうな、と思わせないところが、本書の価値じゃないかなぁと思った。
 わかりやすくするためだろうか、「本当の自分」という言説にロックオンみたいな書き方にはなっている。そうするとそれを断念、とか言う結論かよ、とせっかちに見切りをくけてみたくもなるのだが、それは理解の糸口であり、渇望希求する自己をめぐる様々な再帰逆理を丁寧に分析するものになっている。しかし、マジで大宅壮一文庫を使いこなしきったか?ちょっとすごすぎないか?まさかすげぇ金持ちなのか?それとも早稲田は特別なライセンスをもっちょるのけ?などと邪推しつつも、感心した。雑誌を使って言説分析するような人は、やり方を一度教えてもらいにいた方がいい。と言うか、ボクにも教えて欲しい
 とりあえず自己のテクノロジーの理屈を見る。フーコーについて、熱く語られている。で、自己の再帰的プロジェクトとか言うと、え、そっちなの?ってかんじで、テクノロジーの自己性とかゆう文言を探してみたら、ない。で、よく見ると、ドゥルーズについてもスマートな立論がなされている。16ページの「折りたたむ」前後に議論には、正直痺れた。まじ、すげぇよ。意地悪く、どや顔してねぇだろうなとか、うりうりしたけど、シャラッと書いてある。まあ、すげぇとか思うのは、私が不勉強なだけかもしれない。でも、オリジナリティを感じた。それにしても、よくこちらの議論を切りはなして、禁欲したもんだと感心した。私なら、ここが肥大して、前後半2部立てとかにして、だめなものになったろうなぁ、とか反省した。
 それにしても注が面白い。最初の章だけじゃなく、各章にも執拗に注がつけられていて、非常に示唆的である。こちらの論脈を整理しながら味読してみたいと思う。たぶん論文は書かれているんだろうけど。
 よく見ると、「自己の再帰的プロジェクト」には、「」がしてある。何か強烈な批判が込められているのかと思ったけど、「折りたたむ」にもかっこがついているし、考え過ぎなんだろうね。皮肉どころか、丁寧に虱潰しにすることにより、突きぬけた議論ができているのかもしれない。底力を感じて、非常に刺激になった。
 されおつな表紙だし、学生がすぐ持って行ってしまうだろうから、何冊か買おうかと思う。たぶん著者はイケメンか、とか聞かれるかもしれない。「変えられる外面 変えられない内面」「内面も変えられる」とあるのでイケメンなんだろうな。ワシ的には、「変えられる内面 変えられない外面」だと思うんだが。