加藤裕康『ゲームセンター文化論』

 加藤裕康さんから、本をいただいた。私のようなものにご配意いただき恐縮するとともに、心よりお礼申し上げたい。なぜ加藤さんを知っているのかと言えば、渡辺潤さんがサバティカルの時、大学院のゼミに代講でお邪魔したことがあるからである。その教室に加藤さんはみえていた。ユニークな学生さんが多数いて、メディア、サブカルチャー、若者などについて、存分に語ったことを思い出す。もう5年以上前のことである。
 そのころすでに、加藤さんはゲームセンターのコミュニケーション・ノートをもちいた研究を一通りまとめられていた。柔らかい語り口ではあるが、ビシッと股ぐら一本スジ通した語りぶりには、圧倒された。
 大学院の講義の主旨は、若者文化の作品性、サブカルチャーの作品性について考えることだった。若者の現況について、かなり無理があるくらいにまでポジティブに語ったが、「ムシキングだけは、どうにも評価がしようがない。あれってじゃんけんだろ。昆虫脳とか言われるようになルンぢゃね?」とか、チョーシこいて、言った。そしたら、加藤さんに、丹念に調査して調べ上げたゲーセンの風景を交えながら、そういうゲームにもポジティブな社会性が胚胎されていることを諄々と説かれた。おちゃらけて韜晦して誤魔化すわけにも行かず、けっこう本気でものを言った覚えもある。非常に刺激的なやりとりだった。
 この人何者よ?と思って久しいが、本書のあとがきを見て、やはりというか、もの書きとしてやってこられた方であり、宮台真司に「原稿を発表するところないならネットサイトに載せてやるよ」、とか言われたくらいの人であることも知った。宮台真司ツイッターのブロックされかかった私には、とてもうらやまな話であった。w
 そのご加藤さんは、大学の講師となり、ゲーセンだけでなく、女子高生の「苺白書」だとかを丹念に調査され、ときおり現代風俗学研究会他で発表されたりしていることは知っていたが、あのゲーセン研究はどうなったんだろうと思っていた。それが発表されたのだから、非常に嬉しいことである。

ゲームセンター文化論―メディア社会のコミュニケーション

ゲームセンター文化論―メディア社会のコミュニケーション

【目次】
序 章 ゲームセンターの若者たち
第1章 ゲームセンターへの視線
第2章 ゲームセンター文化の生成
第3章 コミュニケーション・ノート
第4章 イラスト・ノート
第5章 快適な居場所とするための戦略
第6章 伝言・掲示
終 章 新たな若者文化のきざし
補論1 女子中高生の日常写真ブーム
補論2 プリクラを消費する少女たち
あとがき
索引


ゲームセンターとはいかなる空間なのか。
若者はたった一人、ゲームプレイだけを目的にゲームセンターにいるわけではない。そこにはハンドルネームを介して得点を競い合い、観客を前に自分の技を魅せ、コミュニケーション・ノートを通じて「会話」する他者の存在がある。自立的なコミュニケーションのありようと、今日の若者文化の特質を明らかにしていく。


【著者紹介】
加藤裕康(かとう・ひろやす)
1972年生まれ
東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科コミュニケーション学専攻博士課程修了 博士(コミュニケーション学)
現在、大学非常勤講師
主な著作 『コミュニケーション・スタディーズ』(共著、渡辺潤監修、世界思想社、2010年)、「子どもにおけるテレビ視聴環境」(『余暇学研究』第13号、日本余暇学会、2010年)、「社会の中の排除機能――余暇と公共圏」(『レジャー・スタディーズ 余暇研究の転回』余暇学再編プロジェクト編、日本余暇学会、2010年)

 とまあ、言いつつも、そこそこ意地悪な気持ちも持って本をめくりはじめた。というのは、ゲーセン文化、コミュニケーション・ノートはいいですけど、最近だったら、専用の携帯まで出ちゃったりしている、モリマクリ系はどうなっとりますか?フォローしてないでしょ。だったらつっこんじゃいますよ。ってカンジだったんだ。しかし、である。ちゃんと、補論が2章添えてある。くそぉ、と思いつつも、さすがである、と感嘆した。負け惜しみとしては、オレなら二冊にしてたよな、ってカンジだろうか。
 レファランスに赤井正二さんの名前を見つけて驚いた。話したことはないが、学部時代に所属していた哲学のゼミの大先輩である。ヘーゲルの研究をしている人だったはずだが、伝言板研究で足跡を残されているのには驚いた。おそらくは、ヘーゲルから、ハーバーマス経由なのだろう。
 公共空間の問題をサブカルチャー的に論じるときに、ゴフマンの「焦点の定まらない相互作用」に着目するのは、1つの常套である。加藤さんの同窓、宮入恭平さんが訳されたタネンバウムなどもそうだし、私も今準備中の論考において重大な関心をそそいでいるところのものである。この辺の視点が、咀嚼されながら、多くのファクトファインディングスが示されていることには、最大限の賛辞を惜しまないつもりである。そして、最終章で、「新しい若者の文化の兆し」を論じられていることは、同じような関心を、フルボッコにあいつつも、辛うじて保ち続けている私としては勇気づけられる思いだった。
 が、99ページで言われているような議論と公共空間論の問題は、最終章でもう少しじっくり論じられるべきだったのではないだろうか。別に理論的にどうのこうのと言うことではない。暗示して終わるのではなく、戻って整理して、事例1つでもあげて欲しかった。震災の時中国のネットで話題になった写真(=階段で帰宅難民たちが座り込んでいるのに、ちゃんと通路が空けてある写真)みたいなのを、一枚示すだけでも、話はよりストンと落ちたと思うのだが。

 そう思いながら、補論を読むと、その辺の問題がきちんと論じられているようにも思えないこともなかったことは付言する。索引なども丁寧で、使いやすい本だと思う。