太田省一『アイドル進化論』

アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで(双書Zero)

アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで(双書Zero)

 未整理の大学ポストボックスを整理していたら、太田省一さんからご高著が届いていた。またまた恐縮で、本当に申し訳ない気持ちです。ありがとうございました。
 前著『社会は笑う』もそうなのだが、太田さんの著作は、やわらかみのある、嫋やかな筆致でありながら、ガッツリした論理性につらぬかれているというところに、いつも感心する。と言っても、壮大な概念体系を組み立てるというのではなく、あくまで概念装置はシンプルで、それがエレガントに用いられる。
 と言うと、京都学派のようでもあるが、ちょっと異なるように思う。前々から、日常的であること、という方法性について、あまり今日的な作品性として認めていないのではないか、という気がしていた。鶴見俊輔がうちの大学に講演に来られたときに、ある先生が、マンガの面白さを彼にはじめて教わったんだ、と語っていたのを思い出す。太田さんの本は、そういう教えとは一線を画しているだろう。もはや、教わる必要もない地点において、前著の「ボケとツッコミ」、今回の「愛着の視線」と「批評の視線」、バカになることを通じた成熟みたいな視点は提示されている。
 アイドルということをとりあげたこと自体が、そうした方法性、作品性を再帰的に主題化するものになっているようにも思う。かつて、私の学部時代の指導教官などは、テレビなどはみない人で、美空ひばりも知らなかった。なのになぜか、山口百恵だけは知っていて、合宿でオー盛り上がりだったことを思い出す。
 そんな時代には、研究者の看板を掲げた人が、マンガや歌謡曲のことをちょっと語れれば、それで評論になっていた。プロの批評家には、噴飯ものだと言われることもないではなかったし、筆を折ってしまったような研究者もいたわけだが、そんな論考の数々を踏み越えて、稲増龍夫『アイドル工学』、市川孝一『人気者の社会心理史』などの先行研究が生み出されていった。そして本書は、愛着、萌え萌えの批評性を論じ、画期を試みている。
 中学時代に、じぇんじぇんというあだ名のものすごく怖い数学教師がプロレスの話をして、一気に打ち解けた。オフコースが、学校コンサートで、へぃへぃじぇんじぇん♪、とひたすらくり返す「じぇんじぇん」という歌を歌ったときはバカウケだった。大学の寮で、英語で寝言を言うという先輩がいて、なにそれ、とか思っていたのが、ものすごいプロレスファンで、みんなと意気投合して、猪木アリ戦などを見た。ミスター高橋本が出て、あり得ないくらい落ち込んでいた大学院の先輩の、その落ち込み方それ自体が、味わい深いものだった。
 プロレスだけじゃなくて、ブロマイドを買ったり、レコードを買ったり、ファンクラブに入ったり、というのは、なんとなく独特のカンジがあった。大学のゼミで、後輩たちが、郷ひろみ松田聖子のファンクラブに入って、会員証を自慢げに見せていたのを思い出す。日本戸川党という戸川純のファンクラブに入って悦に入っていた私は、とんだイモ野郎だったことになる。
 とある年の学会部会で、赤川学さんが、プロレスファンがモーニング娘。に流れてしまった、という発言をしたことは、ここでも何度も反芻してきた。稲増本にしても、市川本にしても、アイドル不在を嘆く論調がある。しかし、太田さんは、嘆息するのではなく、そこを一続きにして、粘り強く現実を読み解いていく。私はアイドルオタクでも何でもないので、というか、オタク的に知識を蒐集することにはあまり興味がないので、あんまりマニアックな名前やトレンドが並べ立ててあってもあまり共感しないのだが、その辺の頃合いもなかなかよいと思う。
 太田さんのすごいところは、ギャグをいって「うける?」とおそるおそる聞く若い人を見てもぶれたりはしないし、だじろいだりしないし、またそこでいきなりオヤジトークをはじめたりしないことだと思う。かと言って、なにかいいところを見つけて、若者(・∀・)イイ!!とか、マヌケ面をさらしたりはしない。(私は、すぐ(・∀・)イイ!!と言うので、ちょっと誤解されやすいところがあるんだが。w) 冷静に論理的に問題を読み解いてゆく。
 そんな太田さんは、注射相撲とデーモン小暮とか、日本ハムのゆーちゃんとか、そんな現代の人気者について、どう分析するんだろう。そう考えるだけでも、ワクワクする。長谷正人さんとか、いろんな若い人たちが、後に続いている。今後の展開に注目したいと思う。私としては、「批評の視点」という議論をミルズ研究にいかしてゆきたい。