佐藤健二『社会調査史のリテラシー』

社会調査史のリテラシー

社会調査史のリテラシー

 佐藤健二先生から新著を賜った。ありがとうございました。献本前におはがきをいただき、前に書評をいただいたので・・・と添え書きしてくださった。びびらなくてもいいですよ、というようなあたたかなことばが聞こえてくるかんじで、とてもありがたかった。書評とは、前に、出版社気付けで『文化の社会学』のご本をいただいたときに、ブログで感想めいたことを書いたことである。本当に恐縮してしまった。
 1月に亡くなった石田忠先生の偲ぶ会案内と前後して本書を拝受した。リンドやミルズを学ぶために聴講していた濱谷正晴先生のゼミで、石田先生の社会調査論を学んだことを思い出しながら、ページをめくった。大著を読み通すには相当の時間がかかるが、ペラペラとめくった範囲で、考えたことを備忘的に記しておく。
 1つの研究構想が、30年近くの時間を経て、書物としてまとめられた。「社会調査史のリテラシー」という主タイトル、「方法を読む社会学的想像力」という副題、そして、腰巻きに書かれている「フィールドワークのフィールドワーク」という文言、および「質的/量的」などの不毛な二分法的カテゴリーを根源から問い直す、という問題意識など、思わず体言止めを多用したくなるような感慨をいだいた。本の具体的な紹介、目次、さらっと読み、などは出版社が詳細なページをつくっている(下記リンクより)。
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1219-1.htm
 医学や福祉の実習に関わる人に聞くと、個々のテクニックや理論よりも、心構えや倫理をがっちり教えることの方が重要だということをよく聞く。世界的な研究成果をあげている外科医で、動物しか斬ったことのない人がいる、などという話も聞く。臨床は、腕だとか、実地だとか、現場だとか、名人芸だとか、思わず納得させられてしまう。その辺で、二分法を組み立てることは、けっこうよく行われてきた。
 じゃあ、超絶技巧や先端理論に、そういう名人芸がないかというと、ありまくりだろう。にもかかわらず、けっこうこっちの方でも、二分法が横行し、紋切り型の批判がくり返されてきた現状がある。まあその二分法というのも、もはや紋切り型になっているのかもしれないし、脱二分法の理論をせっかく組み立てても、実地の議論をするとき無邪気に二分法になっちまっていることは、けっこうあるものである。
 その辺の「方法」をめぐる論議を、シームレスにすることもできるんじゃないのか?それが本書の提起する問題の1つだと思う。少なくとも、腰巻きはそう読める。著者は、読者論や作法論などを展開してきた延長線上で、これは「教養」の問題であるという。ただまあ、「教養」とか、「名人芸」だとか、そういうちょっと(o¬ω¬o) アヤシイことばをつかうのではなく、方法の問題をリテラシーというされおつなことばで銘記したところに本書の現代的な意義はあると思う。これならば、テクニック系の人にもスッと入っていくだろう。
 こうした再帰的な性質を持った方法の問題を、どう描出するか、ということが問題になる。そこでたてられるのが、社会調査史という主題である。うーん、鮮やか。座布団十枚みたいな。w 社会調査史と言っても、人別に章立てがされているわけではなく、方法の根幹をなすような文言が選び抜かれ、論じられている。それぞれに手ごたえを感じるような文言であり、イシューも明解である。行論は、これまで書かれた論文が、発表順にならんでいる体裁になっており、「方法」の問題が横断面的に示されている。
 都市という問題がとりわけ目につく。理由は、ブースやウェッブやシカゴ学派といった社会調査史の頻出項目を考えれば自明だろう。「方法」の問題は、珠玉の文言がならんだテキストに解消されるのではなく、コンテクストが明示されている、ってことだと思った。
 書き下ろしの体系書ではないが、流れはあとがきに銘記されており、また索引が詳細なので、一定の体系性を想定しながら、組み換えてゆくことのできる、刺激的な編集となっている。この索引にこの本の真価があるとも言えるように思う。
 本書で描かれているような公衆のポイエシスを、批評の問題として考えるミルズ研究を提起した私としては、若干心おだやかならぬ、またしてもやられちゃった感を感じるが、考えてみると、そういうミルズ研究自体が、30年来の著者の書くもの、話すものから学んできた結果だとも思う。(証拠と言っては何だが、最近実は都市社会学みたいなことをやろうかどうか、半年くらい真剣に悩んだ。)
 著者を最初に見た(?)のは、都立大学であった関東社会学会のシンボジウムである。著者の他に、有末賢先生、桜井厚先生、安江孝司先生らが登壇し、中野卓先生、好井裕明先生らが、発言されていたのを思い出す。後藤隆氏らと出かけて、深刻な問題を持ち帰った。生活史調査の代表性だとか、名人芸とかの問題である。随分と厳しい議論をしたことを思い出す。
 その後もこの問題は継続して学会でとりあげられ、東洋大だったかの、学会シンポで水野節郎先生が展開した「ほどよい標準化」論なども非常に印象に残る議論だった。また早稲田大学であった関東社会学会のシンポジウム、そして大阪大学であった日本社会学会のシンポジウムで、著者が質的調査と量的調査について語られたことなども思い出す。
 要するに、私は著者と同時代を生きて、著書を読み、また話を聞いて、モノを考えてきた。時々の学問の動向などとともに、論点の一つ一つが味わい深く感じられる。
 有末先生の学位論文検討会のようなものに出たのが機縁で、生活史研究会で著者や、水野先生、有末先生たちの議論を何度も聞くようになった。極度の人見知りで、また学会トークなども苦手なのでいつも逃げるように帰ってくる。
 著者とお話をしたことはないし、黙っているか、バカ騒ぎするかのどちらかで、誰ともあまり上手くしゃべれないので、本をいただいたお礼なども面と向かっては上手に言えないかもしれませんが、悪気はありません。お詫びするとともに、心よりお礼申し上げます。