山田真茂留『非日常性の社会学』

 山田真茂留先生よりご高著をいただきました。恐縮するとともに、深く感謝いたします。私事を書くことを潔しとしない社会学者が、手短にではあるが、あとがきにしたためていることで、吉田民人という社会学者がどういう人であったかは、想像に難くない。『社会学の理論でとく現代のしくみ』が出版されたときも同じことを感じた。今年の社会学会では、追悼の意味を込めた一部会が設けられ、吉田社会学が検討される。

その吉田民人に指導を受けた卒業論文を公刊するかたちで、本書は出版されている。先輩社会学者との討論から多くを学び、アイディアを生かすことで文章が書かれていること、そして今回の出版に当たり同僚の社会学者に読んでもらって詳細なコメントを得て、文章を錬成し、本書が書かれたことなどにも触れられている。初心に帰る、というような気持ちももちろんあったのかもしれないと拝察するが、むしろ外国の本にあるアカデミックな添え書きのスタイルで書かれた文章であるようにも思った。
 吉田民人から得た卒業論文のモチーフは、吉田の講義「社会学原論」で講じられた「聖・俗・遊・空・乱」という五元的現実論である、と書かれている。それを端緒として、聖と俗、非日常と日常、カオス・コスモス・ノモスなどが体系的に論じられている。当時の東京大学卒業論文修士論文というと、誰が何枚書いた、というようなうわさ話が、多摩地区にまで伝わってくるような状態だったが、枚数や盛りだくさんを誇るようなところはなく、端正な構成力で、無駄のない議論を展開するという聡明さが浮き出ている。
 当時はゴシック様式みたいというか、もっと有り体に言えば、グロテスクなまでの大がかりな装置や図式を組み立てるような傾向もあったように思う。しかし、ここに書かれているのは、非常にシンプルな図式である。「世俗化による非日常性の変容」=「非日常と日常の多元化」という結論的な論点は、クリアで、かつ実に含蓄がある。こうした多元化は、「再帰性」、「パラドックス」、あるいは「リスク」という問題と直結している、と思う。つまり、非日常性の再帰化という意味において。しかし、ルーマンその他をリファーして、概念展開することは禁欲され、筆はおかれている。
 山田真茂留社会学の一貫性がちらりと見えたような気がして、感嘆した。組織アイデンティティの問題、若者文化の抽出と融解という問題、さらには『Do!ソシオロジー』などのテキストの記述などなど、ある意味つねにこの「初心」が分節化され、議論されていることが明確にみてとれるように思った。そして、テキストのなかの「規範を生まないものが文化と言えるか」という主旨の文言を想起し、襟を正した。
 若者文化の問題、サブカルチャーの問題で山田真茂留先生とは議論させていただいた。若者文化の抽出と融解という着想は面白い。しかし、サブカルチャー一般の融解というのはいかがなものか。むしろ「サブ−メイン」の構造は多元化しているのではないか。そう私は思っていた。じゃあそこにどのような文化があるというのか?どのような規範があるというのか?どのような社会性を見ることができるのか?
 私は、若者文化とサブカルチャーを区別し、抽出融解論は前者に限定すべきだと論じた。しかし、問題はそういうことではないということだと思う。サブ−メインの多元化が胚胎している社会性の問題、規範性の問題である。そこをパスして、カオスや乱を「ワクワクするもの」として論じても、少なくとも社会学的には無意味である。再帰、自省、リスク、液状化などなどを精査された上で、どういうロジックを出されるのでしょうか?そこが出せなければ議論になりませんよ。そういう声が聞こえた。関東社会学会のシンポジウムで山田先生が登壇されたときに、それがはじめて明確になった。そして、私は特に反論はしなかった。
 とりあえずの逃げ道は、発見事実記述型を気取ることである。しかし、這いつくばる実証主義に居直るなら、パーソンズやラザースフェルトが批判したように、規範的なものへの天然さは丸出しである。社会学的啓蒙が必要どころか、調査して待つ、というなら、社会学的想像力が必要ということになるだろう。
 さてどうしたものか。今一冊の本を書こうとしている。一般理論としてなにかを言うことはできないが、中範囲の理論化は可能かもしれないと思っている。しかし、山田真茂留先生にとって見れば、こうした議論はより大きな土俵の一部にすぎない。もしかすると、個別の理論は離れ、吉田民人の遺志を継いで、自己の理論の体系化に向かわれるのかもしれないと思った。