たけしの日本教育白書

 ちょっと用事があって実家に帰ってきた。普段は11時前にテレビをみることはめったにないのだが、親が「学問の秋スペシャル・たけしの日本教育白書〜楽しくマジメに語るこの国の大切な未来〜」をみていたので、ついついみてしまった。最初に、「過度に平等化された日本の教育」のプレゼンがあって、出席簿やさん付け問題などが畳み掛けられたので、キターきゃんぺぃんなどと思った。出席簿と言えば、私は女子大で教え、他大は短大や文学部なので、あまり「くんさん」の問題は意識したことがなかった。最初に東村山の塾で教えたときはぜんぶ「くん」で呼んでいた。岡大では、『海がきこえる』に影響されたわけでもないけど、高知流というか男女みんな呼び捨てにしていた。ただそれは、平等のルール遵守かというとそうではない。
 教育の場において、私はルールからはずれまくって育ってきた人間なので、ルールルールと言われると、どんなに民主的なことをめざしていても、やっぱちげぇんぢゃねぇのとか思ってしまうのだ。私が小学校時代よく立たされていて、ポストというあだ名もあったことは何度か話したと思う。まず教室の後ろに立たされ、そこでバカやると次は廊下に立たされた。それでもだめだとバケツを持って立たされる。たぶん今だと体罰とかになるんだろうと思う。立たされていても教室の中のことは気になる。誰かが冗談を言えば聞こえよがしに笑うし、意見を言ったりもする。あるとき先生が質問して、誰も答えられない。しーんとする教室。思わず廊下で手を上げた。「ハイ!」。先生「はい、いなさん(私の担任は男も女もさんで呼んでいた)」。答える私。先生「しぇーかい!」。がらっと戸をあけ「バケツは?」。私「あ!」。一同爆笑。
 「なにかがなくなった」というのは、あまりに月並みな言い方なんだろう。みんなそういうことを思っているし、『Allways』がヒットしたりしている。最近学生を見ていると妙に傷ついていて、ちょっとしたことに神経質になったりしているし、逆に敵意を発散させているような気がすることが多い。そんな辛い場所で生きてきたのか?そんなことを考えながらみていた。で、番組のなかでは、たけしが、小学校の先生の話をしたのが一番印象に残った。母さきが、その先生にめしつくってやったり、洗濯してやったり、こずかいまでやっていた。本やドラマでも何度も触れられたエピソード。めちゃくちゃな話だ。賄賂だったのかもしれない。「市民」の顔でそれを指摘することはもちろん必要だとは思う。でも、正直そういう「市民なもの」は抵抗感がある。ベタだからだ。今は「市民ぎらい」「サヨクぎらい」がベタになっている。モラリズムもへったくれもない。それは、『限界の思考』で言われていたことなんじゃないかと思う。
 ブタのPちゃんを育てて喰えなかったという総合教育のさきがけのような教育実践も再度紹介されていた。先生の「わかぞうぶり」がなかなか印象的だった。たけしは、「昔は殺して食べるために動物を育てていた。だからなんとも思わなかった。あの育て方はきついだろ。それに最初からブタはきつい。まずへびやかえるから」などとギャグを言って笑わせていたけど、手短に問題点を指摘したかたちになっていたと思う。お姉さんがそだてていたひよこのPちゃんの話が出るかと思ったら、はたしてでた。夜店のひよこが育ってお姉さんが大事にしていた。それを鍋にしてみんなで食っちゃってた。帰ったお姉さんは、当然泣く。でも泣きながらいっしょに食っておかわりまでした。そのくらい腹は減っていた。そんなことだろう。「命の教育」という切り口に一石を投じている。
 石原慎太郎との対談は目玉の一つだったんだろう。魅せ場はいろいろ用意されていたけど、妙に陽気で和気あいあいとしていた。慎太郎が高校二年不登校だったエピソードを紹介し、「今の教育では芸術家や芸人は育たない。ドロップアウトして当然」などと言っていたのが印象に残った。職人もそうだろう。しかし熟練できるのは一握り。誇りはもてないだろうし。うつだ。