子どもの反抗はどう変わったか

 『子ども論を読む』という本に書かせていただいたあと、原稿依頼がありとあるところに書いたものです。いきおいで引きうけたのですが、私には荷が重い題材だったと反省しています。論旨的には、先日の価値意識論文と同じと言ってもイイと思います。


子どもの反抗はどう変わったか


 反抗とは、子供が大人になるための通過儀礼とも言うべきものであったはずある。戦後の日本社会において、それが一線をこえた「教育の荒れ」として語られるようになったのは、八〇年代である。一九八〇年には、家庭内暴力、校内暴力が頻発し、流行語にもなった。川崎で二〇歳の浪人生がエリートの両親を金属バットで殴り殺すというショッキングな事件が起こったのもこの年である。ちなみに同年、刑法犯補導少年数が二〇万人に迫って戦後最大となった。一九八二年には、家庭内暴力の代名詞ともなった『積み木くずし』が出版され、二八〇万部のベストセラーとなった。
 ではいったい何が変わったのか?時代時代の反抗の変化をたどることで、これを考えてみたい。反抗はどのように語られ、社会問題として構築されてきたかという視点(1)から考察をすすめる。
 戦後日本の子供言説の変化を考察した際、小谷敏は、教育動員システムの形成と崩壊に注目し、高度成長期、ポスト高度成長期、「失われた一〇年」という時代区分を用いた。(2)ここでは、これに依拠しつつも、第一期をさらに、①敗戦後の混乱・復興期、②所得倍増という目標が明示された一九六〇年以降にわけ、反抗の変化をたどってゆきたい。

敗戦後の混乱・復興期 一九四五〜一九五九

 戦後教育復興の出発点は、一九四七年の教育基本法、学校教育法公布である。義務教育をあらわす「六・三制」は、同年の流行語ともなった。敗戦直後は、「戦争孤児」や「浮浪児」が問題になり、戦後最初の『教育白書』では、通学しない学童の問題がとりあげられたりもした。しかし、一九五〇年には義務教育の就学率は九九%をこえるに至る。
 この時代の学校、地域、家族は、「民主教育」と対峙し、伝統的な生活枠組みの上に、それを受けとめた。四三人の作文を集めた『山びこ学校』ほか無着成恭の教育実践記録は、その様子を活写している。描かれている子どもたちは、反抗もするが、建設的なものであり、無着もそこから多くを学んでいる。
 これを分析した栗原彬(3)は、四四人目の存在に注目する。それを簡単に紹介しておこう。無着のクラスには自分の名前を書けない子どもが六人いた。無着が特訓して五人は名前が書けるようになったが、一人の少女だけはいくら特訓しても書けない。この少女には、両親はなく、兄弟もばらばらに生活していたという。特訓中、無着の下腹を少女はくすぐった。明らかに、まわりの大人から教え込まれた性的奉仕であった。少女は不器用に精一杯の親愛表現をしたのかもしれない。しかし無着は当惑し、後日少女が家の事情で転校していったときに、思わず「ホッとした」という。無着は、思わず安堵した自分や、実質退学であった事実から目をそむけず、記録に銘記した。家族、識字率という問題と関わる「教育のこぼれ」の「穏便」な処理は、時代の暗部を象徴しているようにも思われる。

高度成長期 一九六〇〜一九七三

 さて、高度成長期に移ろう。この時期には、効率的な人材動員のために、家族は核家族化してゆき、地域は働く場所としての都心と住む場所としての郊外に再編された。首相池田勇人は、所得倍増の要点として「人づくりによる国づくり」を掲げた。「欧米なみ」の教育水準の達成という「追いつき型」の教育目標が掲げられ、所得水準が上昇するとともに進学熱が高まった。新しい教育の申し子に「現代っ子」という名称が与えられた一九六二年には、「教育ママ」が流行語になっている。七〇年には、高校進学率が八二.一%となり、高校全入運動が起こることになる。
 この時期の大きな特徴は、「追いつき型」の近代化と全国民が享受できる「一〇〇%の立身出世」という単純明確な目標が掲げられ、動員の要に教育が位置づけられたことや、進学率の上昇、古い家族制度の解体、地域の近代的再編という目標が具現されたことである。そして、家庭電化製品の普及、食生活の向上、消費文化の形成などの日進月歩の手応えを感じた国民は、ささやかな立身出世をめざして、まじめに頑張った。
 ビートたけしの自伝的なドラマ『菊次郎とさき』には、こうした戦後日本における一つの典型的な家族、地域、学校等々が描かれている。たけしの父親は塗装職人であり、ろくに学校も出ておらず、読み書きもできなかった。母親は猛烈な「教育ママ」だった。末っ子のたけしに父親は跡継ぎというせつない夢をもったりもするが、ままならない現実に酒を飲み、暴れた。そんな父親も酒場で子どもの進学を自慢したりもする。時折反抗する子どもたちも、父親のさみしさや母親の執念をやさしく受けとめている。
 こぎれいな衣食住の都市的生活という夢を実現する終身雇用・年功賃金の「給料とり」になるように国民は動員された。そこで、行儀や、勉学態度の悪い「ちゃんとしていない者」は、反抗的な存在として問題視され、訓練された。また、分際にあった生き方に満足せず、「つきなく生きる」ことを欲する者も、問題視されたことに注意しておきたい。(4)

ポスト高度成長期 一九七四〜一九八九

 ポスト高度成長期とは、この「追いつき型」の近代化という目標を喪失した時代である。しかし、喪失は「追いついた」という自負として実感され、さらにバブル期には、世界史の焦点が日本に移動するという予感すら生まれた。またこの時代、俗流化したポストモダン思想は、遊べ、狂え、さからえと説いた。挑発する幼児性が褒め称えられ、軽快なステップワークで、大人たちを困らせるピーターパンに、子どもたちは喩えられた。
 しかし、ポスト高度成長の時代は、米英の新自由主義の影響もあり、競争を重視する考え方が徹底して語られた時代であったことにも注意したい。バブル期にすら、勝ち組と負け組、「マル金(きん)」と「マル貧(び)」という差別化が流行語になった。「一〇〇%の立身出世」という目標は聖域でなくなった。「一〇〇%の全面発達」という高邁な理想もなし崩しになり、ひとつ間違えると、入試科目数の多い「上位校」を頂点とした選別に資する言説になる危険も出てきた。
 問題は、一〇〇%の競争から否応なくこぼれる部分が、−−個性や能力に応じた選択肢がしめされ、きめ細かく人材配分されることなく−−乱暴に落ちこぼされてしまうことである。そうしたなかで、「こぼれた者」の存在の叫びとしての校内暴力、家庭内暴力や、体罰、いじめなどの人権問題が、語りはじめられた。また、「もう一つのよい子の物語」も構築される。よい子の演技にくたびれた優等生のなかには、まったく異なる別人格をつくって、自分を守る者があらわれ、やがて「まったく意外な反抗」が登場すると・・・。
 本来的には、ポストモダン思想は、人間の暗部から目をそらさずに見すえる視点、明暗の不安定であやうい均衡によって保たれている人間存在を見つめる視点であったはずである。その根底には、安直な正義をふりかざすきれい事の人権論を否定する厳格なまじめさがあると思う。手に余る子供たちの挑発、反抗を、カリカリせず笑い飛ばせと一蹴した『異文化としての子供』(5)は、典型例の一つである。しかし、そういう反抗言説が俗流に歪曲された。小谷敏は前掲編著(一一六頁)でこれを次のように批判している。(2)

 過剰な厳粛さ。刻苦勉励、勤勉努力の奨励。そして長上への従順。そうした類の「まじめ」は日本の学校に溢れていた。しかし、それらは所詮「実利と馴れ合うまじめ」でしかなかったのである。はめを外さないのは、上位者の覚えをよくするためだ。そしてこの国の学校で、勉学は立身出世の道具としてのみ位置づけられてきたのである。日本の学校の精神風土には、理想主義的な成分が著しく欠けていた。キリスト教的な、あるいは宗教的な背景を欠いているが故 に、日本の学校体罰への歯止めをもたなかった。だとすれば学校を巨大な抑圧装置にしたのは、「まじめの過剰」ではなく、実利と馴れ合うことのない「本物のまじめ」が存在しなかった点にあるのではないか。

 かなり激しい論難とも言えるが、理想主義、「本物のまじめ」を介在させない挑発や反抗は、思想的な意味を持たないという指摘は興味深い。なかば外国から移築された高度成長システムが終焉したとき、それに変わる、新しい家族、地域、学校のあり方が、まじめに模索されなければならなかったはずである。しかし実際は、バブルの乱痴気が、理想や指針の欠落を覆い隠してしまった。
 バブル後に残されたのは、強者選別の競争原理と、こぼれた者たちの、文字通りの意味での「やり場のない」衝動であった。おまけに日本の社会は、別の道、やり直しという希望をもちにくい。そこでの反抗は、大人になるための通過儀礼などではない。「答え」や指針を求めて、ツッパリ、暴れることに疲れた者は、やがて疲弊し、無気力になってゆく。

「失われた一〇年」以降 一九九〇〜

 終戦直後のアプレゲールから、五〇年代の太陽族、六〇年代の団塊世代、七〇年代のシラケ世代、八〇年代の新人類と、時代時代の世代を括る言葉があった。しかし、九〇年代に世代は明確な像を結ばない。小谷敏の言う「失われた一〇年」とは、括るべき言葉のない九〇年代を指す。
 グローバル化という変動は、競争のより一層の激化である。社会主義国の人々が、資本主義の競争に参入してくる。そして、国民国家という動員の単位も見直されはじめ、効率的に使えるなら外国の労働力を使い、さらには優秀な外国の労働力の移住を容認するという方向性が出されるに至る。外国人の参入が問題なのではない。問題なのは、場当たり的な動員と切り捨てのゲームである。
 国是であったはずの「人づくりによる国づくり」は、大きく変容する。日本的な雇用、賃金体系で、自国民を「総動員」するという原則は、よくも悪くも崩壊しはじめた。競争からこぼれた部分は、自分をどう動員してよいかわからなくなる。暴れても答えはない。おまけに、いつなんでいじめられるかわからない。一九九九年に学級崩壊が、二〇〇〇年にひきこもりが流行語となる。
 意味づけの装置を喪失した者には、「答え」が必要となる。カルト宗教はもちろんのこと、少年犯罪が、世界観的物語、自己完結した世界をともなっていたことは、けっして偶然ではないだろう。そうした世界だけが、「答え」を与えているからである。メディアの変容が、そうした世界を自閉化−−宮台真司の言葉を借りれば、「島宇宙化」(6)−−する。
 自閉化それ自体の傾向は、七〇年代のカプセル型人間から始まっていたとも言える。それは勉強部屋というコックピットで、マンガを読み、ラジカセで双方向なラジオとつながっていた時代である。(7)八〇年代には、ウォークマンという自閉系メディアが登場した。そして九〇年代、インターネットや携帯電話というメディアが、まったく別様な自閉的な世界を構築するまでに発達した。アニメやゲームは、洗練された物語を与えるようになった。学校の教室で、先生の話を無視してゲームボーイをし、あるいは家にひきこもってメディアに興じるのは、この世界観喪失の時代において健全な反応であるという宮台真司の指摘は、たしかに一理ある。
 しかし、この棲み分けは、悲しいかな競争のお零れ−−プレステPC冷暖房完備の贅沢−−に依存している。昨今やけに心地よく耳に響く、サル、バカ、けものといったメタファーも、分別より動員が効率的という判断ひとつ下されれば、ただちに徹底的な規律訓練の物語を構築しはじめるだろう。そして反抗という方便は、動員のためにはいかようにも使われるだろう。昔なら近所や家庭や教室のやさしさでつつまれたような行為や人格も、激しく叱責・訓練されることになるだろう。
 規律訓練の陳腐化も問題として看過できない。躾と称して、反抗の物語をねつ造し、子どもに暴力をふるう者がいる。昨年も、サッカーのリフティングのようにして子どもを蹴り殺す痛ましい「躾」が注目された。
 こうした現状において、躾と反抗の作法をはっきりさせることは、意味があると思う。そのためには、家族・地域・学校を再編するための理想を検討し、そして個性や能力にあわせた一人一人の「役立ち方(=動員法)」、「代替案の出し方(=反抗法)」等々をきめ細かく検討することが、重要であろう。小谷敏の言った「本物のまじめ」の行方も、それによって明らかになるかもしれない。

[文献]

(1)中河伸俊『社会問題の社会学世界思想社 一九九九
(2)小谷敏編『子ども論を読む』世界思想社 二〇〇三
(3)栗原彬「『山びこ学校』を読む」(2)(4)見田宗介,「まなざしの地獄」『現代社会の社会意識』弘文堂 一九七九
(5)本田和子『異文化としての子ども』紀伊国屋書店 一九八二
(6)宮台真司『制服少女たちの選択』講談社 一九九六
(7)平野秀秋中野収『コピー体験の文化』時事通信社 一九七五