ヘタウマ@リチャードホール

 一昨日のリチャホについてのエントリーにつきまして、リチャホっ子さんより『初めまして!突然ですが、自分は劇団ひとりのたけし真似は抜群に巧かったと思ったんですが・・・。』っつーことであります。これは私が川島のたけしの真似につきまして、「うまくないけど妙に味がある。ネタはくだらない。マネはヘタ」とまずゆって、そのあと追記で「ヘタウマ」とゆったことについてのコメントです。言うまでもないとは思いますが、私はりちゃめんはみんなフェイバリットだし、川島が本格始動したことは、(・∀・)イイ!!と思っておりました。また、えらそーになんかゆえるような人間でもありません。それを前提にしての話ですけど、私が川島の真似を「ヘタだけど味がある」とか、「ヘタウマ」とゆったのは、たぶん旧世代の語彙の範囲ではとりあえずそういうしかなかったということであります。そして、そうした語彙の範囲を超えれば「巧い」とも言えると思います。
 旧世代という言い方も適当でないような気もします。言いたいことは、たとえばサブローシロー横山やすし真似とか、あるいはコージー富田の物真似のリアリズムと、川島のリアリズムは異次元であるということです。前者のようなものに巧いという言葉をあてはめると、後者は「ヘタ」「ヘタウマ」などといわざるを得ない面があるように思われるわけです。スゲー乱暴な比較になりますが、マンガで言えば、『ストップひばりくん』『ドラゴンボール』みたいなどうだうまいだろみたいなものが前者、最近の『ブラックジャックによろしこ』だとかすげーデフォルメききまくりというか、ずらして、くずしたリアリズムが後者ということになりましょうか。デッサンが相対的に下手なダリの写実風表現とデッサンが相対的に神のピカソのぶっくずした表現という対比も使ってみたい気もしますが、さすがにコラ!と怒られそうです。後者のほうが、おかしさ、トラウマさなどの、お笑い表現の精髄を最大限増幅しているとも言える。そういう増幅にこそ芸の神髄があるとすれば、川島はめちゃめちゃ「巧い」ということになるように思います。
 りちゃほの制作姿勢を見ても、かなり前衛的で実験的な方向性を打ち出し−−しかし、マニアっくというだけではなく、それが大勢に受け入れられる方向をめざし−−ているように思います。昔風のものさしで言えば、お笑い芸人が笑っちゃうというのは、サイテーのことだったわけです。お笑い芸人が自分ウケして笑う瞬間に間=魔を見るような論考まで著されているくらいです。ところがりちゃほでは、自分ウケ自体がおかしみの表現になり、わざわざそこをアップしていたりする。この辺の製作者の「眼の位置」みたいなものに注目すると、「巧さ」というのが際だつように思います。あえて牽強付会なことを言えば、川島はその「巧さ」を別に信じちゃいないんじゃないかという気もするんですね。だから、ヘタじゃないかとか、ヘタウマということを言っても、とーしろがなに言ってるんだよとか、ゆわないんじゃないか。怖いくらいの職人芸のお笑い芸人と違うものがあるように期待しているんです。名優ウィレム・デフォーが、映画『スパイダーマン』のなかで、スゲーチープな工作の授業でつくったようなコスチュームで、お馬鹿な演技をみせていることも想起されます。しかし、あの場合はヘタウマとかゆうと、「確信犯だ」とかゆってウィレム・デフォーだとか、井筒和幸さんとかに怒られそうなんだよね。だけど、川島は「そっすかねぇ」とか言いそうなカンジなのよね。こういう突き放したところも、リチャホの魅力ではないかと思っていますです。そしてそういう川島は抜群に「巧い」芸人だと思います。いずれにしても昨日は川島のが一番笑えたような気がしています。