ながやす巧『ラブレター』

 コンビニに行ったら、廉価版のながやす巧『Dr.クマひげ』を発見して、ちょいと立ち読みした。腕のいい元移植医、大学医学部の次代を担う期待の星。それが、新宿歓楽街裏町の小汚い診療所で赤ヒゲ先生紛いのヒューマンドラマを展開する。破天荒な街の刑事やクマひげを慕う若い医師やなんやかんやが登場する。このシュールなまでにくさい熱血マンガがバブル期にヤング漫画誌に連載されていたということは、すごすぎると思うけど、スッガンと訴えかけてくるものがある。『愛と誠』のころと本質はなんにもかわらないのかもしれないけど、歓楽街チックなやさぐれでそれなりの脱臭がなされ、リアルなマンガ空間が形成されていたと思う。しかし、普通教授と大げんかしたりして、大学病院を飛び出すというカンジじゃないですか。しかし、クマひげちゃんは、大学教授のポストと思いを寄せる女性を、ライバルの親友に譲って東京に出てくるわけ。ちょーハードボイルドだよなぁ。w やっぱ『愛と誠』や『巨人の星』のスポコン恋愛路線を思い出したりもする作品だ。
 ながやすの最近の作品としては、『鉄道員』が有名だろう。が、残念ながら私はこの原作はさほど好きではない。それは、ガキの頃、おやぢが起きる前に出勤し、寝たあと帰ってくるということが続いたからという極私的な事情からだ。それよりは、同じ巻におさめられている『ラブレター』の方がツボである。この作品は、韓国で映画化されている。もちろん浅田次郎作品が映画化されたわけで、ながやす作品が映画化されたわけではない。実は浅田氏の原作は読んでいない。で、マンガと映画を比べるとマンガの作品世界により惹かれるものがある。もちろん、映画は映画の良さがある。前に掲示板にカキコしたものを引用しておく。
 22 名前: い 投稿日: 2004/02/09(月) 11:32『ラブレター−−パイラン』見ました。浅田じろう原作。ギョーカイ関係のカスみたいな人生刻んできた中年のオサーンが、ひょんなことから中国から不法入国した女の人=パイランに籍を貸して、偽装結婚する。会ったこともなければ、あとはしらねぇってかんじだったのが、その女の人が死んじゃう。異国の地で過酷な労働させられて、でもまわりのみんなに感謝して、でもって結婚してくれたオサーンだけを心の支えにして、手紙を書いて、蕭然としんでいった。人を利用し、食いつくすような、やさしさのかけらもない街で暮らしてきたオサーンの心は、女の人の狂気なまでの「純愛」に貫かれる。てなお話なんすけどね、いろいろ評価はあると思うけど、アテクシ的にはマンガ版『ぽっぽや』に収録されているマンガ作品の方が、グサッと来るものがございました。マンガの方は、千葉の漁村の外人スナックで客をとらされて、でもって性感染症でB肝もらって、ボロクズのようにパイランは氏んで行く。「故郷の家族にも仕送りできますた」という感謝の言葉に、いろんな「共犯関係」が明確な像を結ぶし、パイランの一人前のオトシマエというか、生に憐憫や同情をなげかける余地は一切残されていない。映画の方は、パイランをキーセンにしたりはしなくって、田舎町で過酷な洗濯労働をこなす働き者の女の子にする。でもって、最初から病んでいた病気で血を吐いて氏ぬ。パイランの「純情」と、カスみたいに利用され、食いつくされかかっているオサーンの交響はそこにもあるんだけど、パイランへのけなげがどうにも雑味なカンジがしてしまいマスタ。しかし、オサーンは、映画の方がシビアに食いつくされる。利用され、食いつくされたオサーンに、パイランのビデオ映像(突然そんなものが最後に見つかるのにはおいおいおいおいおいってかんじでしたが)が幸福な残像として網膜に焼き付けられ、オトシマエがつく。マンガの方は、オサーンの状況はそこまでシビアじゃない。小金もらって、女の始末にいくだけのこと。でもって、パイランの一緒のお墓に入ることキボンヌがかなっちゃったりする。普通は、なんじゃあああああこりゃあああなんだろうけど、なんかこのような救いの方が許せる気がするのは、不思議だなぁ。マンガの方が浅田作品に近いということだけだと思うけどね。弱者の敗北主義的律儀や生真面目が、コンサマトリーに純化されキラキラと輝く。一昔前なら、この負け犬、敗残者と罵倒されそうだけど、報いなく必死に頑張ってきたオレたちのプロジェクトXを生きて来ちゃったりすると、いかんともしがたくツボだよなぁ。パイランの人生も、オサーンの人生も、おれっちの人生も等しく尊い。そしてその尊厳は一応韜晦的。でもなんで一応なんだろ。わら。