落語における間と型−−間の社会学8

 南博『間の研究』に永井啓夫「寄席の芸−−間へのアプローチ」という論考がある。落語なんて詳しくもなんともないアテクシがいうのもなんだけど、なんか論じてみたくなった。まあメモがわりということで・・・。
 節のタイトルを見ると、寄席の環境、木戸、前座、拍手などの文言が目につく。要するに、掘っ建て小屋のような貧しい小屋に、一般大衆が話を聞きに来ていてといった環境から落語というものが生まれたという分析に一つの趣向がある。天井も低いし、立って踊りもできない。だから生まれたのが座踊り。そんなカンジの分析から、「間の芸」を解析している。
 設備が貧しいから、立って踊れない。そして、設備が貧しいから、大きな主題や形式をもつことができなかった。そう永井氏は言う。歌舞伎などの先行する芸能の主題や技法をちらりと暗示する。小話のオチを聞かせる。そして、模倣とパロディが主たる芸になっていったのだという。貧しい小屋で、ホンモノをリアルに再現するとかではなく、ちらりとさわりを魅せてみる。そこで客は拍手する。こういう瞬間の芸が、落語の芸だとすれば、それはまさに「間の芸」であるということができる。幇間のお座敷芸ともまた違うにしても、江戸っ子の粋やシャレと結びついた芸である。こういう芸は、時代の変化とともに目まぐるしく変わる。だから、方法や型が定着しにくい。時代が変われば、逆転してしまったりすることもあるからである。永井氏の分析は、やや飛躍している部分もあるものの、「間の芸」としての落語をわかりやすく分析していると思う。
 客と舞台の相互作用のなかに生じる「間」を、拍手に着目して分析した議論も面白いが、やはりこの論考の一番の功績は「型と間」の関連に注目したことだと思う。「上・下」だとか、落語の型はいろいろあって、それにより「対話の芸」としての落語が成立するらしい。そこで肝心なのは「芸としての間」なのだという。永井氏は、十代目金原亭馬生の談話を引いている。

 落語の場合は芝居の台本や講釈とちがって“ト書”というものがない。対話のみで噺をすすめてゆくわけですよ。対話の中だけで、年恰好から性格すべてに至るまで表現しなくてはならない。必然的に言葉が生きていなけりゃ噺になりません。
 言葉そのものには駄洒落っていう遊びの面白さはありますけど、本来は人物同士のやりとり、つまり“間”が面白いのであって、言葉そのものには面白さなんかありませんよ。
 言葉ってえのはあまり智恵がないんだよね。本当のこというと。喋らない方が智恵なんです。何も言わないで通じなくちゃいけないんだ。

 ある「型」を具現する「間の芸」を、落語の場合は一人で維持しなくてはならない。演芸において、「型」は重い圧力となるが、三味線のつく浪花節、講談の張り扇みたいな守ってくれるものがない。初心のうちは、「型」とそれに命を吹き込む「間」を学ぶ必要があるが、名人上手のコピーをしてもどーしようもない。自分の型と間をつくることが必要だ。そう永井氏は言う。
 昭和の名人といわれる大御所を私はテレビで見ることのできた年齢であり、すごいんだぞなどと、親に言われて見た記憶もある。まあたしかに言われてみると、なんとも言えない味わいがあったと思う。しかしである。こういう方向性に、なんかちげーんじゃないかみたいに思ったりもしたことも事実である。たぶん名人大御所もすべてわかって、テレビで広告塔みたいな役割を演じていたンだろうとも思う。しかし、正直テレビで腹を抱えて笑えたのは、たとえば笑点菊ちゃんの片岡千恵蔵のものまねや、イヤンバカンだとか、お笑いタッグマッチの小せんさんや文治さんであり、歌奴のやまのあなあなあなあなたもうねましょうよであり、あるいは今輔のばあさんであり、そしてなんつっても林家三平の「よしこさん」である。三平と今輔は、まんまで今でも、若いのに受けても不思議じゃないと思うけどね。圧倒的にその方がテレビで映えたと思う。まあただそういうところに顔を出す、名人大御所もかなりおもしろいぢぢいたちだなぁとは思ったけど。
 古今亭志ん朝が晩年、昔ながらの寄席の香りが残っている名古屋の大須演芸場に好んで出演していたという話をきく。古典落語の名人上手というのともまた違う芸能活動に感銘を受けた覚えがある。別にビートたけしフランス座でコントやってたほうがいいとはいわないんだけど、志ん朝大須演芸場はよくわかる。大須は、巣鴨なんかよりもさらにコアなぢぢいばばあのストリートだしね。あれ見ちゃうと、町おこし的な大衆芸能って、寒いのけっこうあるよね。さんまちゃんの番組に出てきた『冥土のみやげ』を文治さんとかでやったら、面白くねぇかなぁ。「孫を信じてやって下さい」のみゆきにはかなわないかもね。
 まあしかし、有識者ひんしゅく覚悟で言えば、ワールドダウンタウンって現代の落語かもしれない。